15. おわりに:臨床現場における診断を超えて
臨床の複雑性と「診断」の限界
精神医学における診断は、医療行為の出発点であり、治療方針や支援体制の枠組みを決定づける重要なステップです。しかし、現実の臨床において患者が示す症状は、教科書的な分類にぴたりと収まるものばかりではありません。
たとえば、「幻聴を伴ううつ状態」は統合失調症かうつ病かという古典的な診断論争にとどまらず、発達症、パーソナリティ障害、トラウマ反応、あるいは薬剤性の影響まで含んだ多元的理解が必要になる場合があります。このように、診断名は出発点ではあっても、到達点ではないという考え方が、いま多くの臨床家のあいだで共有されつつあります。
「関係性」から出発する精神医学へ
診断モデルの限界を補うものとして注目されているのが、患者との関係性を基盤とした臨床実践です。精神療法や面接の技法においては、形式的な診断を超えて、「この人がいま、何に苦しみ、何を求めているのか」を関係性の中で見出す姿勢が求められます。
たとえば、同じく「うつ病」と診断された患者であっても、その背景に
- 発達上の困難
- 家族内葛藤
- 社会的孤立
- 経済的不安
- 孤独と意味喪失
などが重層的に絡んでいるケースでは、それに応じた支援の方法が必要となります。
診断の精密化と並行して、対話と傾聴を軸とした関係性中心の支援が今後ますます重要になると考えられます。
精神疾患ではなく「生きづらさ」の支援へ
従来の精神医学は「疾患を治療する医学」であり、それはもちろん必要不可欠な視点です。しかし一方で、現代の臨床では、診断名を与えられない「グレーゾーン」の人々や、診断を求めていないが支援を必要とする人々へのアプローチが求められています。
こうした流れの中で、「精神病を治す」のではなく、「生きづらさを支える」医療へと視点を広げる必要があるでしょう。これは医療のみならず、福祉、教育、地域社会との連携を前提とした、より包括的な精神保健の枠組みの構築を意味します。
臨床家としてのまなざし
本稿で取り上げたように、うつ病と統合失調症の関係性は時代とともに変遷しており、単一の答えが存在しない領域です。むしろ、その曖昧さや多様性を前提としつつ、患者個人の経験に寄り添うことが、今後の精神医学に求められる態度であるといえるでしょう。
臨床家として私たちは、「この患者にとって、診断がどのような意味をもつのか」「いま最も必要な支援は何か」という問いを、自らに投げかけ続ける必要があります。そして、診断に頼りすぎることなく、人間の全体性に向き合う精神医学をめざしていくことが、我々の使命であると信じます。
参考文献(第15章)
- 岡田尊司『生きづらさを抱える人たち』PHP新書, 2012年.
- 夏苅郁子『精神病院に入院していた頃の話』医学書院, 2017年.
- スティーヴン・ヒンクル『診断の彼方へ:精神医療のトラウマと回復』みすず書房, 2021年.
- 中井久夫『分裂病と人類』みすず書房, 1993年.
- 津田均『現代精神医学のパラダイム転換』金剛出版, 2020年.
- Oyebode, F. (2021). Sims’ Symptoms in the Mind: Textbook of Descriptive Psychopathology (6th Ed.). Elsevier.