「同行者」としての治療者と患者

「同行者」としての治療者と患者:人間の条件に向き合う旅

アンドレ・マルローはある片田舎の神父について語っている。長年にわたり告解を聞き続けてきたその神父は、人生についてこう総括したという。「まず第一に、人々は思っている以上に不幸である……そして、大人というものは存在しない」。この簡潔だが深遠な言葉は、人間存在の本質に鋭く迫っている。私たちは皆、治療者であれ患者であれ、歓喜だけでなく、幻滅、老い、病、孤独、喪失、意味の喪失、困難な選択、そして死といった人生の暗部に出会う運命にある。

この人生の悲哀を、最も辛辣かつ陰鬱に語ったのは、ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーだろう。彼はこう述べた。

「若き日、私たちはこれから始まる人生を劇場の子供のように待つ。カーテンが上がる前、興奮と期待に満ちて座っている。だが、これから本当に何が起こるのかを知ることがなかったのは、ある意味で幸いなのだ。もし知ってしまえば、子供たちは死刑囚のように見えるだろう。ただし、彼らに課せられたのは『死』ではなく『生』であるという違いはあるが。」

彼の比喩は冷酷だが、そこには逆説的な慈悲がある。人生という「刑」に向き合うこと、それが自己意識をもった人間の宿命であり、私たちが「精神療法」という行為のなかで直面せざるを得ない現実でもある。


■ 「癒す者」もまた傷ついている

精神療法の世界では、しばしば「完全に分析された治療者」なる神話が語られる。だが、長くこの道を歩むうちに、私は次第にこの概念の神話性に気づくようになった。師と仰いだ治療者が支援を必要とする場面にも出会い、かつて自らを導いた人々が、人生の理不尽に打ちひしがれる姿も見た。そして、今や私自身が年長者となり、支援を与える立場になってもなお、癒されない部分を自覚せずにはいられない。

私たちは皆、共にこの人生を生きる「同行者(fellow travelers)」なのだ。この言葉は、患者と治療者を隔てる線を消し去る。医療の制度的用語——ユーザーとプロバイダー、クライアントとカウンセラーといった冷たい表現は、この「同行者」という比喩の温もりの前に色褪せてしまう。

人間学的精神療法の祖の一人、メダルト・ボス(Medard Boss)は、ハイデガー哲学の影響を受け、「存在開示としての治療」という視点を示した。つまり、治療とは「治すこと」以前に、「共に在ること(Mitsein)」であり、相手の存在がより開かれていくための関係性のあり方なのだ。治療者とは、患者の物語を「聴く」だけでなく、自らの物語にも耳を澄ませねばならない、まさに「道連れ」である。


■ 砂漠の泉と癒しのパラドックス

ヘルマン・ヘッセの『知と愛(Magister Ludi)』に登場する、ヨセフとディオンという二人の治療者の寓話は、その真実を象徴的に語っている。沈黙と傾聴によって癒す若きヨセフと、厳しく導く長老ディオン。両者は長く互いを知らぬままに「ライバル」として過ごしたが、ヨセフが絶望に沈んだとき、助けを求めてディオンを探す旅に出る。途中、偶然出会った旅人が道案内を申し出る。実はその旅人こそがディオンだったのだ。

この寓話は、私たちに問いを投げかける。癒しとは一方向的なプロセスなのだろうか? いや、むしろ、援助関係とは常に「相互性」のなかにある。最初は「導く者」として現れたディオンもまた、心の奥では自らを導く存在を求めていた。援助とは時に、援助する者自身を救う行為でもある。

これは、人間学的に言えば、「共感」の力に他ならない。カール・ロジャーズが提唱した「無条件の肯定的関心(unconditional positive regard)」とは、単に相手を評価しないという以上に、自らが変容することへの開かれである。「私はあなたの声を聴きながら、自分の深い声を聴いている」。そのような関係が生まれたとき、治療は単なる技法を超えた「出来事」となる。


■ 失われた対話の時間——死の床での真実

この寓話の最後、ディオンが死の床で明かす告白——実は自分もまた助けを求めてヨセフを探していた——は、まるでギリシア悲劇のカタルシスのようだ。だが私たちは問わずにいられない。「もしこの告白が20年前に交わされていたならば?」と。

セラピーの現場でも、しばしば「語られなかった真実」が癒しを阻む。患者が口にできなかった感情、治療者が見ぬふりをした不安。それらが、治療という関係のなかで「未完のまま放置された問い」となり、静かに痛み続ける。詩人リルケが「未解決のすべてを愛しなさい。問いそのものを愛しなさい」と語ったように、私たちは「答えのない問い」に対しても誠実でなければならない。


■ 「同行者」の倫理——専門性を超えて

精神療法における「倫理」は、規範やガイドラインにとどまらない。それは、共に歩む者としての「在り方」に関わる。スイスの実存主義的精神療法家ルートヴィヒ・ビンスワンガーが語ったように、「精神病理とは世界との関係の変容である」。ゆえに、治療とは単なる技術ではなく、患者と共に「世界を再発見する営み」であるべきなのだ。

精神療法の現場において、治療者が「傷ついた癒し手(wounded healer)」であることは避けられない。だが、その「傷」こそが、共感と理解への架け橋となる可能性がある。フランクルが『夜と霧』のなかで語ったように、極限状況における人間の尊厳は、苦しみのなかでいかに「意味」を見出すかにかかっている。セラピーとは、まさにその営みの「場」である。


■ 最後に:問いを愛し、問いかける者をも愛せよ

このすべてを要約するように、私はリルケの言葉に続けてこう言いたい。「問いを愛せ。そして問いかける者たちをも愛せ」。治療とは、問いへの答えを与えることではない。それは「問いに耐える」ことであり、問いのなかに他者と共に居続ける勇気である。

だからこそ、私たちは「同行者」なのだ。道の先に何が待つかを知らずとも、ともに歩む者の存在が、旅を意味あるものにする。砂漠のなかで出会う一杯の水のように、その関係性こそが、私たちを生かすのである。


【参考文献】

  • Malraux, A. Anti-Memoirs. (1967)
  • Schopenhauer, A. Parerga and Paralipomena. (1851)
  • Rilke, R. M. Letters to a Young Poet. (1929)
  • Hesse, H. Magister Ludi (The Glass Bead Game). (1943)
  • Rogers, C. On Becoming a Person. (1961)
  • Boss, M. Existential Foundations of Medicine and Psychology. (1979)
  • Frankl, V. Man’s Search for Meaning. (1946)
  • Binswanger, L. Being-in-the-World: Selected Papers in Existential Analysis. (1963)

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