診断をすることへのためらい

診断をすることへのためらい――人間をラベルで縛らないために

「診断の問題は、つねに人間を“何か”に還元しようとする誘惑に満ちている」――これは精神療法に携わる者であれば誰しも一度は感じる不安である。

今日の臨床現場では、「診断」があまりにも前面に出すぎている。とくに保険制度と結びついたマネージド・ケアの枠組みにおいては、治療者が迅速に診断を下し、その診断に応じた短期間かつ焦点化された治療を行うことが当然とされている。しかしそれは、あくまで書類上の要請に過ぎず、現実の人間存在とはおよそかけ離れている。

もちろん、統合失調症や双極性障害、重篤なうつ病、てんかん、薬物中毒、脳器質性障害など、明らかに生物学的基盤をもつ疾患においては、診断は治療上不可欠である。しかし、それ以外の大多数、つまり私たちが日常的に出会う「深く傷ついた普通の人々」に対しては、診断は時に逆効果となる。

診断は、われわれの視野を制限する。人は一度診断を下すと、その枠組みで相手を見るようになる。診断に合わない情報は見落とされ、診断に一致する些細な特徴が過剰に意味づけられる。こうして、患者は「ボーダーライン」「ヒステリー」「回避性」などのラベルを貼られ、そのラベル通りにふるまうようになる。これこそが「自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)」の構造である【注1】。

人間学的精神療法(anthropological psychotherapy)の視点に立てば、こうしたラベリングの暴力性はより深刻に映る。人間はそもそも「診断不能」な存在である――いや、むしろ「診断されるべきではない」存在なのだ。オイゲン・ビンスワンガーやヴィクトール・フランクルが繰り返し強調したように、精神療法とは存在の意味へのまなざしであり、現象として現れる苦悩や症状は、その人の生の全体性のなかで解釈されるべきである【注2】。

ニーチェが「診断するとは、思考の怠惰である」と述べたかどうかは定かではないが(少なくとも私はそう読んでいる)、それは人をカテゴリーに押し込めようとする行為が、理解を放棄する誘惑であることを言い当てている。

筆者の友人である精神科医は、研修医にこう問いかけるのが常だったという。「君たち自身が精神療法を受けるとしたら、DSMのどの診断名がつけられると思うか?」と。確かに、初回面接のあとに下す診断は、10回のセッションを経た後の理解とはまるで違っている。もしそれでもなお「診断」にこだわるなら、それは人間ではなく「制度」に仕えているのではないだろうか。

かつてDSMの旧版を作成した専門家たちも、それなりの確信と誠意をもって体系を築いた。だが、いまや彼らの分類は廃れ、忘れ去られつつある。DSM-IVの「中華料理店のメニュー形式」【注3】も、いずれは同じ運命を辿ることだろう。

精神療法とは、もっと曖昧で、創造的で、予測不能な営みである。私たちは「対象」としての患者ではなく、「関係」において出会う他者と向き合っている。そこでは、正確な診断よりも、共に生きる姿勢が問われる。ロジャーズが述べたように、他者に「条件なしの肯定的関心(unconditional positive regard)」をもつこと、つまり診断によらない受容こそが、治療のもっとも根源的な力なのだ【注4】。


注釈

【注1】Rosenthal, R., & Jacobson, L. (1968). Pygmalion in the classroom. 予言された通りに相手が行動する「自己成就的予言」は、臨床においても強い影響力をもつ。
【注2】Binswanger, L. (1942). Grundformen und Erkenntnis menschlichen Daseins(『人間存在の基本形式と認識』)。また、Viktor E. Frankl の『夜と霧』や『意味への意志』参照。
【注3】DSM-IV(1994)は、多軸的評価と多種選択式の診断体系を導入し、形式的には「メニュー選び」のようであると揶揄された。
【注4】Rogers, C. R. (1957). The necessary and sufficient conditions of therapeutic personality change. Journal of Consulting Psychology.


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