毎回のセッションで「いま・ここ」に注目する

この頃、私は診療の終わり近く、決まってこう患者に問いかける。「今日は、私たち二人のあいだで、どんなふうに時間が流れていたと思いますか?」と。あるいは「この一時間、私との関わりに、何か感じることがありましたか?」とも言う。

大した問題もなく、話の流れもよどみなかった回であっても、私はこの問いかけを省略しないようにしている。なぜなら、それがいわば、関係というものの「温度計」のような役割を果たすからである。

人と人とのあいだには、目に見えぬ空気がある。その空気の温度や湿り気を感じ取ることは、ひとつの感覚器のようなもので、訓練によって鋭くなってゆくものだ。だが、いかに感覚が鋭かろうと、相手に確かめてみるまでは、本当のところは分からない。

患者が「今日は先生がとても近く感じられました」と言うこともある。「途中で少し遠ざかった気がしました」と語る人もある。そのような言葉をきっかけに、私は「どんな瞬間に、距離を感じましたか?」「それは、私のどんな振る舞いや表情と関係していたでしょうか?」と、静かに尋ねてゆく。

こうした会話は、単に治療の進捗を測るためのものではない。むしろ、人間関係という深い森のなかに分け入り、自分がどこにいるのかを確かめる羅針盤のようなものである。森に入るたびに方向を確認する者は、迷子にならない。

私は初回の面接から、こうした「関係への注目」を持ち込むようにしている。まだお互いの歴史もなく、会話も手探りの段階であっても、「今日この時間、私といてどう感じましたか?」と問う。そうすることで、言葉にできない感情のひだに光が射すことがあるのだ。

人間学的精神療法の観点から言えば、この「いま・ここ」への注目は、人間存在の根源的なあり方を問うことに他ならない。現象学者メルロ=ポンティが語ったように、人間は「世界に投げ込まれた身体」であり、その身体は常に他者との関係のなかで意味を得る(Merleau-Ponty, Phenomenology of Perception, 1945)。

だからこそ、治療の場という「関係の舞台」で起こるすべてのこと——たとえば、目が合うこと、視線をそらすこと、ため息、間、笑い、怒り、沈黙——これらすべてが、関係の織物を紡ぐ糸となる。これを「製粉所のすべての穀物(ALL is grist for the mill)」と呼んだアーヴィン・ヤーロムの言葉は、まさに的を射ている。

ときに、患者が初めて涙を見せたその瞬間は、すぐには扱わず、少し時間をおいてから取り上げる。その時になってはじめて、「あのとき涙を見せてくれたこと、あなたにとってどんな意味がありましたか?」と尋ねると、はじめて言葉になる想いがある。

こうした関係のなかに繰り返し戻り、自分がどこに立っているかを確認すること。それは治療の核であるばかりか、人間であるということの核心に迫る営みでもあるのだ。

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