「退屈」と名指す代わりに自分が「どう感じているか」を語る
ある患者と話している時、ふと、気が遠くなるような感覚を覚えた。
つまらない、と思った。だが、そのまま口にするのは、あまりに粗雑だ。
それを言えば、彼はきっと傷つくだろう。「お前の話は退屈だ」と言われて、気分のいい人はいない。
少し考えて、「距離を感じる」と言った。あるいは「うまくつながれないような感じがする」と。
それは事実だったし、非難でもなかった。
話していて、どこか自分がそこにいないような、薄い膜を隔てているような、そんな感じがしていた。
人と人との関係には、時にそういう曇りがさす。
それがなぜ起きるのか、こちらに分かることもあるし、分からないこともある。
だが、その曇りを無視するのではなく、静かに差し出すことが、治療のひとつの仕事だと、自分は思っている。
話しているとき、患者は同じ話を何度も繰り返していた。
内容よりも、その反復の仕方に、何か疲れのようなものが感じられた。
その繰り返しのなかに、彼の時間が沈んでいた。
それを「退屈だ」と切って捨てるのは簡単だ。
だが、自分は、そこに踏みとどまりたいと思った。
「なんだか、うまく届かないような感じがします」
そう言ったとき、彼は少しだけ、こちらを見た。
そして何かを言おうとして、言わなかった。
沈黙があった。その沈黙の中に、彼と自分とが、同じ場所に立っているという感覚があった。
こういうとき、言葉は慎重に選ばなければならない。
下手に切りつければ、関係はすぐに壊れてしまう。
だからといって、黙って通り過ぎるのも、どこか不誠実だ。
感じたことは、感じたまま、相手に渡す。
そのとき、自分がどうしても欲しいのは、正確な言葉ではなく、伝わる言葉だ。
人と向き合うというのは、たぶん、そういうことだと思う。
まっすぐに見る、というのは、まっすぐに見返されることでもある。
そして、それに耐えるだけの静けさが、こちらにも求められている。
言い換えれば—— 患者が「何をしているか」を語るのではなく、「いま、ここで」自分が「どう感じているか」を語るように。