人生の意味を求めることを援助するカウンセラー

意味への旅路の同伴者として ——責任と自由のはざまで 

人生には、その意味がまるで霞の彼方にあるかのように、掴もうとしても指の間から零れ落ちるような時期がある。ある人はそれを「スランプ」と言い、またある人は「うつ」と呼ぶ。名付けの方法はさまざまだが、その根にはたいてい「自分の人生がどこに向かっているのかわからない」という問いが横たわっている。 

このようなとき、われわれ人間学的精神療法を旨とするカウンセラーは、クライエントに代わって「意味」を与えるような真似はしない。代わりに、その問いをともに抱え、ともに歩く。意味は与えるものではなく、掘り起こされるものであり、しかもそれは、地層のように時間をかけて沈殿した個人の経験や感情、想念の中からしか現れない。そこに立ち会うには、ただ聴くこと、ただいること、そして沈黙の価値を知ることが何よりも大切なのだ。 

サルトルの言葉を借りれば、「われわれは自由という刑に処せられている」。強い言い回しだが、思春期にこの言葉を知って以来、私は折に触れてこの句を思い出す。若い頃には、その厳しさに打ちのめされたこともある。が、年齢を重ねるにつれて、次第にこの言葉が指し示すものの重さと優しさとが、少しずつ見えてきたようにも思う。 

カウンセリングの現場では、クライエントが苦しみの原因を他者や環境、あるいは脳の化学的偏りのせいにしたくなる場面にしばしば出会う。それは当然のことである。人は誰しも、自分の苦しみに理由があってほしいと願うし、その理由が「自分以外」にあると信じられるならば、どれほど楽になれるだろう。しかし、意味ある変容は、そこにはない。なぜなら、それでは自分自身の人生を再び自分の手に取り戻すことはできないからだ。 

人間学的精神療法は、この「責任と自由のはざま」における人間の存在の根源的な困難を、何よりも直視しようとする。それは単なる精神療法の技法の集積ではない。むしろ、哲学であり、倫理であり、あるいは文学でさえある。ヴィクトール・フランクルは『夜と霧』において、「人間からすべての自由が奪われても、最後に残される自由がある。それは、自分の態度を選ぶ自由である」と述べた。極限の状況下でのこの言葉には、にわかに信じがたい重みがある。しかし、それこそが人間という存在の不思議さであり、また可能性なのだ。 

カウンセラーとしてのわれわれの仕事は、クライエントの苦悩にただ「共感する」ことでは終わらない。その共感は、深い理解の入り口ではあっても、終点ではない。必要なのは、クライエントが自らの人生において、たとえ小さくとも新しい選択をしていくことに向けて、責任という言葉にもう一度息を吹き込むことである。 

この「責任」とは、罰ではなく、可能性である。責任を引き受けるということは、すなわち自らの物語を自らの手で書き直す自由を得るということだ。言い換えれば、クライエントが「自己の作者」として再び立ち上がることに手を添える――これが、われわれ人間学的精神療法家の使命である。 

ある時、私は一人の若いクライエントに尋ねた。「今から十年後、あなたが今日の自分を振り返ったとき、『あのとき自分は精一杯生きた』と思えるような人生とは、どのようなものですか?」。彼は長い沈黙のあと、小さな声でこう答えた。「自分のことを、少しは信じられるようになっていたいです」。 

この「少し」という言葉に、私は深く打たれた。自己を信じることすら、そう簡単にはできない人がいる。それでも、人はその一歩を踏み出すことができる。だからこそ、われわれカウンセラーは、クライエントに未来の視点を贈る。「過去」ではなく「未来」に軸足を置く視線――それは、過去に囚われた心を解放する鍵である。 

ニーチェは『ツァラトゥストラ』の中で、「人間は越えられるべきものだ」と言った。その言葉は、高慢にも聞こえるが、裏を返せば、人間とはつねに「なるべき存在」であるという宣言でもある。人間学的精神療法は、この「なるべき存在」を支える哲学であり、倫理的な実践である。 

最後に、私たちがクライエントに伝えたいのは、人生に意味が「ある」かどうかではなく、それを「創る」力があなたの中にある、ということである。意味はどこかに落ちているものではない。それは、あなたが、あなたの不安や傷や希望の中から、時間をかけて見つけ出すものであり、何よりもあなた自身が担い、創るものなのだ。 

それが、「意味を求めることを援助するカウンセラー」の、静かで、しかし揺るぎない仕事である。 

参考文献・引用 

  • Jean-Paul Sartre (1943). L’Être et le Néant(邦訳『存在と無』) 
  • Viktor E. Frankl (1946). Man’s Search for Meaning(邦訳『夜と霧』) 
  • Friedrich Nietzsche (1883-85). Also sprach Zarathustra(邦訳『ツァラトゥストラはこう語った』) 

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