水底の石に触れる──決定するのではなく、ゆさぶる

水底の石に触れる──決定するのではなく、ゆさぶる 

クライエントがふと口にする。「先生、どうすればいいでしょう?」 

その声音はどこか、雨上がりの川の水面のように澄んでいるが、じつは深く、冷たい不安を孕んでいる。こちらが不用意に「それなら、こうしたらいい」と応じてしまえば、一見その水面に波は立たぬ。だが、それはまるで、氷の上に薄布をかぶせるようなものだ。かすかな温度で、静かに割れる。答えは与えられたが、答えに至る道は、封じられたままである。 

人間学的精神療法は、この問いに、慎重に、しかし誠実に向き合うことを求める。 

決定とは、単なる選択行為ではない。それは自己創造であり、同時に、自己の有限性を受け入れる行為である。イェーリング(Jhering)が言ったように、「意志は、痛みを引き受ける勇気である」。我々がある選択をするということは、無数の他の選択肢を手放すことを意味する。そしてその手放しが、人生に「かたち」を与えてゆく。 

もしセラピストが、あまりに安易に答えを与えるなら、それはその人の生の「かたち」を、他人が描いてしまうということになる。人間が生きるとは、自らが自らの彫刻家になることである(cf. May, The Courage to Create)。そのノミと槌を、他人に明け渡してはならぬ。 

けれども、私たちが沈黙のうちに、ただ「待つ」だけでよいわけでもない。 

ときに、一つの言葉が、深い沈滞に小さな亀裂をもたらす。 

たとえば、「それは、誰の願いなのか?」という問い。 

たとえば、「その選ばなかった可能性に、どんな感情があるのか?」という問い。 

これは、「導く」ことではなく、「揺さぶる」ことだ。凝り固まった思考の岩肌に、一滴の水を垂らすようなものである。やがて、その水は石の表面を濡らし、染み込み、数年かけて岩を割る。 

人は、自らの力で、自らの答えを見出したいのだ。その道のりはしばしば遠く、茫洋としているが、そこを歩かねばならぬ。 

私がこれまで出会ったある若い女性のクライエントは、恋人との別離を決められずにいた。周囲の誰もが「別れたほうがいい」と言うなかで、彼女だけが、心の奥に微かなひっかかりを残していた。私はあえて、「別れるべきです」とは言わなかった。ただ、彼女の語る「なぜ別れたくないのか」という理由を、ひとつひとつ、共に検討していった。そこには、愛情よりも恐れ、孤独への忌避、自己価値の確認欲求といったものが、織り込まれていた。 

ある日、彼女はこう言った。「あの人を失うことが怖かったんじゃなくて、私がひとりでいることを恐れていたのかもしれない」と。 

そのとき、決定は彼女のうちに生まれた。私はただ、彼女の思考の迷宮の中に、小さな窓を開けただけである。決定は、その窓の先に差し込んだ光の中で、自ずと形をなしていった。 

ユングは、「自己とは、なるべきものである」と言った(Jung, Memories, Dreams, Reflections)。 

人は、いまここで、ひとつの道を選び取ることで、「なるべき自分」を作っていく。だが、その選択には、常に痛みと恐れが伴う。無数の「ノー」を背に、ひとつの「イエス」を言うこと。その「イエス」が、確証も正当性もない、ただの跳躍にすぎないかもしれぬこと。その不安を見据え、なお選ぶ。ここに、実存的な勇気がある。 

フランクルは、極限状況のなかで「意味への意志」を語った(Frankl, Man’s Search for Meaning)。私たちの日常の選択も、また小さな極限である。些細に見える一つの決断が、生の全体に新たな意味をもたらすことがある。その意味の誕生に、私たちは立ち会わねばならない。 

ときには、ほんのわずかな助言や介入が、停滞の水に石を投じるような働きをする。それは、結果を決めるためではなく、思考と感情の水流に波紋を生じさせるためである。澱んだ感情の底には、ときに、長く沈んでいた「真実」が眠っている。その石に触れ、指先が震えるその瞬間に、変化の芽が生まれる。 

だからこそ、セラピーとは、無理に掘り起こすことではない。水面を静かに見つめながら、必要なときに、そっと小石を投じる仕事なのだ。 

私たちは、誰かの人生を決定することはできない。ただ、その人が、自らの人生を「決する」という営みに、丁寧に寄り添うことだけが、許されている。 

そのとき、セラピーの場は、ただの会話の場ではなくなる。 

そこは、ひとつの小さな、しかしかけがえのない、〈生の劇場〉となる。 

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