決断する人の主体性を支える 結論よりも主体的であったかどうかを見守る

ある雨上がりの午後、私は静かな診察室で一人の青年の話を聞いていた。彼は苦悩に満ちた声で「どちらを選ぶべきか分からない」とつぶやいた。恋人との関係を続けるべきか、あるいは新たな道を歩むべきか——その問いに、私はしばし黙した。返答は容易かった。だが、私は言葉を飲み込んだ。それは、彼の人生の重さを奪うことに等しかったからである。 

誰かに決めてもらうことは、時に安堵をもたらす。だがそれは、一種の「生の責任の外注」である。自ら決め、自ら引き受けるという、実存の重力から一時的に逃れることはできるかもしれないが、それは成長の機会を一つ手放すことでもある。マルティン・ブーバーが言う「我—汝」の関係において、人は自己の存在を他者に照らし出されるが、それは決して「他者による代理の決定」によっては成り立たない。 

決断とは、単なる選択の行為ではない。それは「私が、私として」立つという、存在の主張でもある。ハイデガーが『存在と時間』で述べたように、「死に向かって投げ出された存在」である人間は、避けようのない有限性と同時に、決定の自由という無限の責任を背負っている。 

だが現実には、私たちはしばしばこの重荷から逃れようとする。たとえば、ある中年の男性患者は、家庭生活に倦み、職場に気の置けない相手ができたと語った。しかし彼は、離婚という決断を下すことなく、妻の冷淡な態度を批判し、あたかも彼女が去ってくれるのを「待っている」かのようだった。彼の無意識は、自らの選択を「他者の行動」によって引き出そうとしていた。 

こうした「選ばぬことによる選択」は、実は最も根深い決断である。セラピストの役割は、このような自己欺瞞の網をそっとほどき、患者が自らの主体性に再び出会う場を用意することである。決断とは、自らの欲望と恐れ、過去と未来、他者との関係、そして自己との対話を含んだ、深い内的ドラマなのだ。 

ときに、患者は「決めないこと」を選ぶ。そしてそのことで、大きな苦悩を回避できると信じている。しかし実際には、未決断の状態は、じわじわと精神の芯を蝕んでいく。まるで、腐った果実が知らぬ間に香りを失うように。ここにおいて、セラピーの時間は単なる問題解決の場ではなく、むしろ「生きるとはどういうことか」をともに問い直す実存的な広場となる。 

かつての患者が言った。「もし彼が浮気してくれたら、私は別れを決断できるのに」。この言葉の背後にあるのは、自らの意志によって関係を終わらせることへの深い恐れである。——傷つけたくない、でも傷つきたくもない。だが、人生とはそのような傷とともにあるものであり、それこそが人間存在の輪郭を際立たせる。ニーチェが『ツァラトゥストラ』で語ったように、「痛みの中にこそ、もっとも深い真理が宿る」。 

治療者の仕事とは、こうした実存的な葛藤に一緒にとどまりつつ、その人が「どう生きたいか」を、自らの言葉で語るのを待つことである。指図ではない。命令ではない。伴走者として、時に問いを投げかけ、時に黙って共にいる。それは、山道を歩む旅人の隣で、杖を手渡すような行為である。だが、歩くのは彼自身であり、踏みしめる土の感触を知るのも、また彼自身なのだ。 

最後にもう一度、静かに記しておきたい。人は、自らの過ちからしか学ばぬことがある。否、むしろ「過ちを通じてしか」学べぬと言った方が正確であろう。教育と治療の違いは、ここにある。教育は正解を教えるが、治療は「正解のなさ」に耐えることを学ぶ。そしてセラピストとは、そのような不確かさのなかに、静かにともし火を掲げて立つ者である。 

参考文献 

・ハイデガー, M. (1927). Sein und Zeit(『存在と時間』) 

・ブーバー, M. (1923). Ich und Du(『我と汝』) 

・ニーチェ, F. (1883). Also sprach Zarathustra(『ツァラトゥストラかく語りき』) 

・ヤーロム, I. D. (2002). The Gift of Therapy(邦訳:『セラピストの贈り物』)

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