選択による自己創造
いつもは通らない裏道。そこに続く風景は、まだ私にとって未知だった。少し歩いてみようかと思ったが、やめた。
人は、無数の選択肢に囲まれて生きている。そして、その一つを選ぶということは、他のすべてを「選ばなかった」ことを意味する。その「ノー」の重みは、意識されないまま、私たちの内面の深いところに堆積していく。選択のたびに、人生は少しずつ形を変え、私たちは、自分自身という存在を、一本の細い筆でなぞるようにして描いていく。
ある患者がこう言った。「あのとき、別の大学を選んでいたら、今の私はきっと、もっと幸せだったと思うんです」。その言葉に私は頷きつつも、心の奥で小さくため息をついた。人はしばしば、現在の自分を否定することで、失われた可能性への郷愁を慰めようとする。それは、まるで過去に閉じ込められたもう一人の自分に手紙を書くような行為である。だが、その手紙は決して届かない。
私たちは常に選択する自由を与えられているが、それは同時に、選ばなかった結果のすべてを自らの責任として背負うことを意味する。自由とは贈り物であると同時に、荷物でもある。
私たちはしばしば、自分には無限の可能性があると信じたがる。「あれもできる」「これもできたはずだ」と。しかし時間は直線的に流れ、身体は衰え、気力には限界がある。決定とは、そうした有限性に向き合う勇気を試される瞬間なのだ。
哲学者マルティン・ハイデガーは、「決断(Entschlossenheit)」という言葉を用いて、人が自己の存在に真摯に向き合う瞬間を表現した。それは、死という最後の可能性を自覚したときにこそ、本来的な自己に到達できるという、人間学的な洞察に根ざしている。死があるからこそ、私たちの選択は尊いのだ。なぜなら、その選択が二度と戻らない「一度きり」のものだから。
この視点から見ると、恋人を選ぶ、職業を選ぶ、住む町を選ぶ、あるいは一冊の本を読むといった何気ない行為さえ、実は実存的な重みを伴っていることがわかる。それは、人生という一回性の中で、自らの「物語」を編んでいく行為である。どの章をどう書くかは、他の章をどう書かなかったか、という問いと裏表をなしている。
ある日、老年の女性患者が診察室で言った。「もう少し違う選択をしていれば、私は母親になれたかもしれません」。その言葉は、あたかも海の底に沈んだ真珠のような痛みを含んでいた。だが私は、彼女がその悲しみを言葉にできたことこそが、癒しの始まりだと思った。「喪失を引き受けること」は、「自己を獲得すること」と表裏一体なのだ。
ここに、人間学的精神療法の核心がある。選択とは単なる問題解決ではなく、自己創造の営みである。私たちは、選んだ道によって自らの形を彫り出していく。そしてその形が、人生の終わりにどんな彫像になっているのかは、今この瞬間の選択に委ねられている。
選ばなかった道の向こうに何があったかを、私たちは永遠に知ることはできない。
参考文献・註
- ハイデガー, M.(1927). Sein und Zeit(邦訳:『存在と時間』)