わたしたちは、どこからやってきて、どこへ行こうとしているのだろうか――そんな問いをふと、曇った窓に映る自分の顔を眺めながら考えてしまう日がある。あるいは、診察室のソファに腰かけた人がぽつりとつぶやくとき、こちらの胸の奥にも、その問いのこだまが静かに広がることがある。
心理療法というものを、どこか「発掘作業」や「探偵ごっこ」のように捉えたくなる誘惑がある。フロイトのように、地層の奥深くにある「真実」を丹念に掘り当て、最後のジグソーピースをはめることで、一枚の絵が完成するかのように――まるで、謎がすべて解かれれば、それで苦悩も消え去るとでもいうように。
だが、本当にそうだろうか。わたし自身、かつてはそのような観念の虜であった。正しい「解釈」さえ与えれば、クライエントは変化する。洞察こそが癒しの鍵。そんな風に信じていた。だが、実際の臨床では、それが機能しないことの方が多かった。クライエントが語るのは、「あの時、先生が私の目を見て黙ってうなずいてくれたことが救いだった」とか、「ただ黙って、私の話を全部聞いてくれたことが忘れられない」といった、解釈や説明を遥かに超えた、非言語的で、瞬間的な“関与”の体験であった。
このズレ――セラピストが重視するものと、クライエントが実際に価値を見出すものとのギャップ――は、どうやら個人的な錯誤ではないらしい。多くの当事者研究、あるいはナラティヴ・アプローチの文献は、この相違に繰り返し言及している。たとえば、Patricia Deegan(1996)は、精神障害からの回復を「意味の回復」だと語ったが、それは必ずしも診断名や病因の理解といった医学的な「説明」によってではなく、「自分が誰かに必要とされている」「誰かとつながっている」と実感できる関係性の中でこそ生じるのである。
ここで思い出されるのが、実存主義哲学者ニーチェの言葉である。「真理は存在しない。あるのは解釈だけだ。」――この一文は、ときに反知性的な響きをもって理解されるが、むしろそれは、われわれの「説明」への執着に対する根源的な問いかけではないだろうか。われわれが必死に探し求める“真理”とは、しばしば不安に耐えきれない心が生み出した、精緻な“構成物(construct)”に過ぎないのかもしれない。
精神療法は、むしろその「構成物」が“崩れる”プロセスにこそ意味があるのではないかと、思うことがある。つまり、セラピストが提供する「洞察」や「説明」は、単に一つの物語であり、それがクライエントと共有されることで生まれる共鳴、関係、連帯――そうした「探求の場」こそが治癒の基盤なのである。
メルロ=ポンティが『知覚の現象学』(1945)の中で語ったように、「世界は、われわれがそれと関わる行為の中で意味を帯びてくる」。精神療法もまた、出来合いの意味を「発見」する作業ではなく、共に「構築」する営みなのだ。どんなに精巧な理論であれ、それが「関係の中で経験されるもの」とならなければ、クライエントには届かない。
ある女性のクライエントがいた。彼女は重度のトラウマを抱えており、言葉を発することすらままならなかった。わたしは、様々な理論的枠組みを駆使して彼女の状態を理解しようとしたが、進展はなかった。ところがある日、ただ二人でコーヒーを飲みながら無言で過ごした数十分が、彼女にとって「もっとも治療的だった」と語られた。そこには、「治療関係の質」が言葉を超えて存在していた。
ここに、ハイデガーの「現存在(Dasein)」という概念が響いてくる。われわれはまず世界の中に“投げ込まれ”、他者との「共在(Mitsein)」のうちに自己を見出す。精神療法は、単に病理を診るのではなく、「共在」する場としての意味を持つ。言い換えれば、セラピストは、他者の存在に応答する「もうひとつの現存在」でなければならない。
この応答性(responsiveness)は、現代の神経科学の文脈でも支持されている。アタッチメント理論やポリヴェーガル理論では、安全な関係性が神経系の自己調整を可能にすることが示されている(Porges, 2011)。つまり、「安心して誰かと一緒にいる」ことが、脳や身体のレベルで回復を促進するのである。
精神療法とは、洞察という名の知的ゲームではない。むしろ、それは「傷ついた意味を抱えて生きること」に寄り添い、「共にそこに居る」ことの実存的な誠実さを要請される営みである。
そして、時に、最も深い癒しは、言葉にならない沈黙のうちにこそ宿る。わたしたちが、クライエントの沈黙を「何かを言わせる」べきものではなく、「共に聴くべきもの」として捉え直すとき、そこに治療の空間が開かれるのかもしれない。
もし、癒しがあるとすれば、それは「唯一の答え」に出会うことではない。それは「共に問い続けてくれる誰か」に出会うことだ――わたしは、今、そう思っている。
参考文献
- Deegan, P. E. (1996). Recovery as a journey of the heart. Psychiatric Rehabilitation Journal, 19(3), 91–97.
- Merleau-Ponty, M. (1945). Phénoménologie de la perception.
- Heidegger, M. (1927). Sein und Zeit.
- Porges, S. W. (2011). The Polyvagal Theory: Neurophysiological Foundations of Emotions, Attachment, Communication, and Self-regulation.