「今、ここ」の声

「今、ここ」の声

――夕暮れに

 しばらくして、窓の外の光がすこし和らいでいることに気づいた。空は茜色から灰青へと移り変わり、山の端にかかる雲がひとつ、ゆっくりと形を変えていた。思えば、こうして空を眺めることも、ずいぶん久しい。忙しさのなかで、私は空の変化にさえ気づけないまま、生き急いでいたのかもしれない。

 人生とは、こうした小さな「気づき」の連なりである。けれど、私たちはたいてい、その気づきを見過ごしてしまう。なぜなら、「もっと良くあらねば」「より速く、より高く」といった声が、あまりにも騒がしいからだ。ロジャーズが言うように、私たちは「他者の評価的なまなざし」に怯え、いつの間にかその期待に自分を同一化させてしまう。

 けれど、人は決して「他者のための存在」に終始するものではない。むしろ、「自分に正直であること」からしか、真の関係は始まらないのだ。自分を偽りながら他人に尽くすことは、やがてその尽くし方さえも歪ませてしまう。

 思えば、私たちが傷つくのは、たいてい他人の言葉ではなく、自分が自分に課した基準によってである。「こんなことで悲しんではいけない」「もっと前向きでなくてはならない」――そうした内なる声こそが、もっとも冷たい裁判官となって、私たちを追い詰める。

 だからこそ、私は人間学的精神療法に惹かれるのだ。それは人間を「修正すべき欠陥」ではなく、「理解すべき存在」として捉える。誤りや迷い、曖昧さまでもが、その人の固有の物語の一部であることを、静かに肯定する。そのまなざしは、まるで春の雨のように柔らかい。

 あるクライエントが、小さな声でこう言ったことがある。「私、ずっと自分を変えなくちゃって思ってたけど、もしかして、そんなに急がなくてもいいのかなって……思えるようになってきたんです」。

 私はその言葉に、胸がふわりと温かくなった。変化とは、なにか劇的な出来事ではなく、こうした「自分に優しくなる瞬間」から、そっと始まるものなのだろう。

 日がすっかり暮れて、窓辺に淡い灯りが映った。私はひとつ深く息をついた。

 生きるとは、結局のところ、「いま、ここ」に戻り続けることかもしれない。未来への不安や、過去の後悔に押し流されそうになっても、そのたびに、小さな声を聴くこと。「いま、私は、どうしているのか」と。

 その問いかけに、決して正解はない。ただ、静かに耳を澄ますこと。その行為こそが、もっとも人間的な営みであり、他者とのあいだに真の橋をかける第一歩となる。

 そして私は、再び本を閉じる。夜のとばりが降りてきたが、心は明るかった。


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