進化論的視点を取り入れた精神障害の理解

この三者――エミール・クレペリンジェームズ・クリクトン=ブラウンジョン・ヒューリングス・ジャクソン――はいずれも19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した精神医学者・神経学者であり、進化論的視点を取り入れて精神障害の理解を試みました。それぞれの立場を詳しく見てみましょう。


🧠 1. エミール・クレペリン(Emil Kraepelin, 1856–1926)

◇ 概要

クレペリンは現代精神医学の父と呼ばれ、「早発性痴呆(統合失調症)」と「躁うつ病(双極性障害)」の区別を確立した人物です。

◇ 進化論的視点

  • クレペリンは、精神障害を「人格発達の系統発生的段階」に結びつける可能性を考えていました。
  • 「系統発生(phylogeny)」とは、人類の進化の過程での発達段階を指します。
  • 彼の視点では、精神異常は人間の心的機能がより原始的なレベルへと退行する現象として理解され得る。

◇ 例

たとえば、統合失調症のような疾患で見られる「思考の解体」や「感情の平板化」は、高次の精神機能が失われ、より下位の、原始的な行動様式や反応が表面化するものと考えられました。


🧠 2. ジェームズ・クリクトン=ブラウン(James Crichton-Browne, 1840–1938)

◇ 概要

イギリスの精神科医で、ダーウィンとも親交があり、初期の生物学的精神医学の発展に貢献した人物です。

◇ 進化論的視点

  • 彼は**「高度に発達した脳皮質が、精神病において最初に損傷される」**という仮説を提唱しました。
  • 脳の皮質(特に前頭葉)は、人類の進化の中で最も新しく発達した領域とされる。
  • よって、精神疾患は進化的に新しい脳の部分が破綻し、古い・原始的な脳の反応が相対的に優勢になる過程と見なされる。

🧠 3. ジョン・ヒューリングス・ジャクソン(John Hughlings Jackson, 1835–1911)

◇ 概要

イギリスの神経学者で、ジャクソン型てんかんや「ジャクソン進化説」で有名です。

◇ 階層的脳構造と「解体(溶解)」モデル

  • ジャクソンは、脳の機能を三層構造の階層モデルとして理解しました:
    1. 下位:脳幹・脊髄レベル(本能的・反射的機能)
    2. 中位:辺縁系(情動・感情)
    3. 上位:大脳皮質(論理的思考・抑制)
  • 精神病や神経疾患における症状は、この階層が**「上位から下位へ」溶解(dissolution)していく**過程として現れる。
  • これは**「進化に逆行する現象」**と見なされ、進化論(特にハーバート・スペンサーの思想)の影響を受けています。

◇ 例

  • ジャクソンは、てんかん発作を例に取り、皮質機能の崩壊によって、下位にある原始的な運動反応が出現すると論じました。

🧩 三者の共通点と相違点

視点クレペリンクリクトン=ブラウンヒューリングス・ジャクソン
精神障害の理解人格発達の退行高次皮質の損傷階層構造の解体
基本思想系統発生的退行脳構造と進化階層的脳構造と溶解
進化論との関係発達段階との対応進化的に新しい部位の脆弱性機能の逆進化的退行

🧭 補足:彼らの進化論的精神医学の意義

  • ダーウィン進化論の影響を受け、19世紀末には「人間の精神機能も進化の産物であり、それゆえ病理も進化的に理解可能だ」という観点が広がりました。
  • これは、精神障害を単なる逸脱や道徳的欠陥ではなく、生物学的・神経学的過程としてとらえる道を開きました。
  • 今日の**神経発達症(neurodevelopmental disorder)**という概念や、階層的脳機能モデルにも、彼らの理論は遠くから影響を及ぼしています。

クレペリン、クリクトン=ブラウン、ジャクソンらの進化論的視点は、そのままでは現代の脳科学とは異なる部分もありますが、その根幹にある考え方――「精神機能には階層性と発達的脆弱性がある」という視点は、現代の精神医学・神経科学・発達心理学に深く根を張っています。以下、いくつかの具体例で説明します。


🧬 1. 神経発達症(Neurodevelopmental Disorders)の考え方

  • 発達の遅れや偏りが、脳の特定のネットワークの脆弱性に由来するという発想は、まさに進化論的・発達論的視点の延長です。
  • 例:**自閉スペクトラム症(ASD)**では、社会的認知・情動調整などの「進化的に新しい機能」がうまく発達しない。

✅ ジャクソンやクリクトン=ブラウンが仮説した「新しい脳の部分は壊れやすい」は、今でも脳発達の議論で引用される基本原理です。


🧠 2. 脳の「階層性」モデル:三層脳理論(Triune Brain)

  • ポール・マクリーンが提唱したこのモデルは、脳を以下のような進化的階層で捉える理論です:
    1. 爬虫類脳(脳幹):本能・生存反応
    2. 哺乳類脳(辺縁系):感情・情動
    3. 人間脳(大脳新皮質):論理・言語・社会性
  • これはジャクソンの階層モデルをほぼそのまま現代化したようなものです。
  • PTSDや解離の研究では、**「皮質の抑制が解除され、辺縁系や脳幹の反応がむき出しになる」**という現象が観察されており、これは進化的退行モデルそのものです。

🧬 3. 発達逆行と精神病理:現代統合失調症研究との接点

  • クレペリンが指摘した「精神障害=人格の進化段階への退行」という視点は、現代でも以下のように引き継がれています:

統合失調症では、心的エネルギーの統合機能が損なわれ、より初期的な(未分化な)精神状態に戻る

  • ミンデルやマハイらによる「神経的退行」の概念や、ブレウラーの「基礎障害(Grundstörung)」も、**「複雑な心の構造が崩れ、単純な状態に戻る」**という観点で説明されます。

🧪 4. 進化的精神医学(Evolutionary Psychiatry)

  • 現代では、なぜ精神疾患のような遺伝的負担の大きい状態が淘汰されず残るのかという観点から、進化論的精神医学が展開されています。
  • 例:
    • うつ病は「社会的撤退によるエネルギー温存戦略」だったのか?
    • 不安は「危険に備える防御システム」が過剰に働いた状態なのか?

これは、病理を「進化的適応の副産物」としてとらえる視点であり、ジャクソンたちのように病理を「機能の喪失」ではなく、「構造の再編成」として見ようとする試みです。


🧠 5. 現代の神経科学:大脳皮質と下位構造のインタラクション

  • fMRIなどの脳画像研究では、**前頭前野(executive function)扁桃体・海馬(情動・記憶)**のやりとりが、精神疾患(うつ病、PTSD、不安障害)と深く関係していることが明らかになっています。
  • 高次機能が不全になると、下位の「感情的脳」が暴走する――まさにジャクソンが言った「溶解(dissolution)」の現代版です。

🧭 まとめ:三者の進化論的視点と現代のつながり

古典的モデル現代の対応
クレペリンの系統発生的退行神経発達症、統合失調症研究、脳機能の未分化モデル
クリクトン=ブラウンの皮質脆弱性前頭葉障害、実行機能障害、感情制御困難
ジャクソンの階層構造と溶解三層脳理論、PTSD、感情脳の制御不全モデル

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