カウンセリングの原型

治療者が傾聴することは、ヒト型ロボットが相手の話を録音して、後で音声を文字にして残すことと何が違うか。決定的に番う。根本的に違う。

治療者自身の脳と体全体が検出器になって反応する。DSMに当てはめる方式とは全く違う。それって、大昔の、ロマン主義的遺物だよねと、DSMは言うだろうけれども、そうでない、少数だが有力な意見もある。

治療者は、相手の話をよく聞いて理解して共感するのであるが、理解して共感する部分については、自分の脳細胞を働かせて、自分の脳細胞セットが、そのような状況になったら、自分ならどう考えてどう感じるかをモニターしている。決して、相手の話を忠実に文字にして終わりではない。かといって、自分がそう感じたからと言って、素朴に、そのままを発現・表現していいわけではない。そのことが、治療にどのような影響を及ぼすかを、慎重に測定して、対応しなければならない。だから、非常に高速に脳を働かせる必要がある。それは反射的な速さではない。しっかり、しかも、速く考えるのである。

相手がこう発言したとか、このような表情をしたとかを記録することはとりあえずできるけれども、その意味を考えると、少し時間がかかる。反射的に判断できることではない。意味を考えるには、どうしても、自分の脳の内部でシミュレーションする必要がある。そこでcpuをかなり消費する。そして、そのシミュレーションが、あまりにも自分的すぎないかを検証する必要がある。自分的過ぎてはいけない。自分のために行っているのではないから。意味をくみ取ったうえで、相手の治療に役立つように反応しないといけない。ここでもかなりcpuを消費する。

・傾聴する
・自分の内部の反応を知る
・どのように対応するのが治療的か考える

この三者を同時に走らせているのが、治療である。

聞き上手な長老が、自分の場合はこうやって乗り切ったぞ、などと話すのとはかなり違うのである。

例えば、戦争に行ったことのないやつになんか、自分の苦しみは分からないと言いたいだろうけれども、カウンセリングは、そのような意味での苦しみを共有するものではない。

戦争に行った結果、苦しんでいる人が語っている、それを聞いて自分はこのように感じている、それならば、このような言葉が治療に役に立つのではないかと考える、このようなプロセスであるから、戦争に行ったかどうかは関係がない。まあ、詳しく説明しないでも、ツーカーで通じるということならば、そうだろう。語る側の言葉が足りない、かつ、聴く側の聴く力が足りない、そのような場合には、共通の体験も役に立ちだろう。

しかしそれならば、戦争体験というものは、みな同質なのだろうか。戦争に行って帰ってきたということで、分かりあえるというほど、同質なのだろうか。そんなはずはない。様々な戦争体験があるはずである。

体験が類似しているとか、環境が類似しているとかで、分かりあえるという要素はあるだろう、それは素朴に、その通りだ。しかし、子細に検討すれば、各人の体験も環境も固有のものであって、共通だと断じることできない。

世の中の祖母が、嫁に疎んじられるのもこの点である。祖母の子育てと、嫁の子育ては、共通点もあるが、相違点もある。そのことを良くわきまえないで、先輩面をするから、疎まれる。

そうではなくて、相手の言葉がかなり粗雑であっても、この人は、このことを言いたいんだなと、かなり大幅に補完して、理解する。いくつかの点々を滑らかにつないで、何かの輪郭を感じ取る必要がある。そこがまず、かなり難しい。そのあとで、そのことを聞いて、自分はどのように考えて感じたか、検討する。そのうえで、治療に役立つことは何かを考えて、反応する。かなりのcpuを要する。

例えば、有名な、プレコックスゲフュールがある。相手の表出から、独特なゲフュール(感じ)が治療者の内部に形成される、そのことを診断の役に立てるという考え方である。これは、現代的カウンセリングの原型であるともいえる。

相手の表出に、これがあります、これがありますと、並べ立てるだけでは足りない。それに接して、治療者の内部に何が起こったか、それが重要である。そこを手掛かりにして、診断も治療も進展する。

このプロセスは、DSM方式とは次元が違うことが理解していただけると思う。

この、一種独特な感覚は、容易には共有できないし、説明も難しい。ピアノの演奏の仕方を人に説明しても、容易には伝わらない。説明しても、演奏できるとも限らない。逆に、演奏できないからといっても、理解していないとも言えないのであるが。

どうすれば絵を上手に描けるか、説明しても、あまり効果はないと思う。でも、上図に描けない人も、自分の絵が上手でないことは理解できると思う。だから、何かは分かっているはずなのだが、分かっていても、上手には描けない。大体そのようなことと似たようなことだと思う。

例えば、誰も、ハイジになったこともないし、クララになったこともない、仮面ライダーになったことも、ショッカーになったこともない、ウルトラマンになったこともない、山椒魚になったこともないし、杜子春になったこともない、ハンス・ギーベンラートになったこともない、ラスコーリニコフになったことも、ソーニャになったこともない、イワンも、アリョーシャも。

みんなその人になったことはないけれども、その人の話を聞いたら、どんな気持ちが自分の中に動くかを正確に知ることは訓練によって可能になる。そこを訓練する。

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