チョンユジンの歌などを聴いていると

チョンユジンの歌などを聴いていると、
音楽は単なる音の上下と連なりでしかないのに、
こんなに心地よいのはなぜだろうと思う。
モーツアルトもそうだけど。

多分、自分の脳の内側の、シミュレーション回路が働いて、
次の音の予想があり、その予想と、現実の音との差が、あるいは一致が、
心地よい刺激になるのではないだろうか。

ある程度予想ができなければ、楽しさもないだろう。
現代音楽は、そうした部分とは違う楽しさを求めているのだろうと思う。

何度も聴いたり何度も踊ったりするのは、
自分の予測と現実の差と一致を確認しているのだろう。

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声の質も、好き嫌いがあるだろうが、私はこの人の声が好きだ。
ナナ・ムスクーリみたいに、オペラのアリアの編曲みたいなものを
マイクで、歌ってみてほしいとも思う。オペラっぽい発声ではなく、歌謡曲の発声で。
だって、私たちが風呂で鼻歌を歌うときは、オペラの声の出し方ではないわけだし。

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それにしても、テレサテンの歌とか、五輪真弓の歌とか、歌詞が分かる歌の場合は、
音の上下、延ばし方、ビブラート、声の質、だけではなく、言葉の意味が乗ってきて、
言葉の意味と、音の心地よさが、分かちがたく一体となる

そして、その歌詞は、非常にステロタイプで、低い文化をいつまでも歌っていて、困ったものだと思う。
大衆の人気を博するためには、大衆に人気のある歌詞を歌うことにならざるを得ないのは分かるが、
文化の乏しい環境では、それが子供たちの主な感受性訓練となることも事実であり、
多少の問題もあるように思う。

音楽的問題もあるだろうし、またもう一つには、歌詞が作る心の世界の、奇妙なねじ曲がり具合が、
あまり健康ではない場合もあるということである。
よくない心理教育である。

テレサテンの歌の一部は、そのようなものであって、この歌詞の世界に心地よさを感じてしまう人間は、
自分がどのような貧しい文化環境に育ったのかを自覚したほうがよい。
そして、その文化的貧しさから抜け切れず、ときに、心地よく浸っていたりする、その現在の成長のなさ、
なさけなさ、だらしなさ、そうした一連のことを考えて、自分に失望したほうがいい。

そして、失望した後に、立ち上がってほしい。

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