井筒俊彦先生の『意識と本質:精神的東洋を索めて』について、その宗教的啓示に満ちた側面を強調し、紹介します。『意識と本質:精神的東洋を索めて』 (岩波書店、1991年 / 岩波文庫、1991年)
井筒俊彦『意識と本質:精神的東洋を索めて』:言葉の淵源へと遡る、意識の形而上学の啓示
井筒俊彦。この名を聞けば、多くの学徒は、東洋思想、イスラーム哲学、禅、そして比較哲学の巨匠というイメージを抱くだろう。だが、彼の真価は、単なる知識の蓄積や解釈の精緻さにとどまらない。彼の主著の一つとされる『意識と本質:精神的東洋を索めて』は、まさに知的な「啓示」に満ちた書である。それは、我々が普段生きる「言葉の世界」の基底に横たわる、より根源的な「意識の場」へと誘い、存在の根源を問い直す壮大な試みである。本書は、東西の哲学を縦横に往還し、言語の限界を超えた「意味の構造」を解明しようとした、井筒哲学の集大成にして、我々の意識そのものに対する深遠な問いかけである。
「意識の形而上学」への招待:言葉以前の世界へ
西洋哲学が伝統的に「存在」や「実体」を問いの出発点としてきたのに対し、井筒俊彦は、東洋思想の核心から「意識」を根源的な問いの対象とする「意識の形而上学」という独自のアプローチを提示する。本書が我々を誘うのは、まず、我々が日常的に認識し、思考し、交流するこの「意味の分節化された世界」のさらに奥底、すなわち「言葉以前の世界」、あるいは「絶対無分節状態」と呼ばれる意識の深層へとである。
私たちは、意識すればするほど、世界を「対象」として認識し、それを「言葉」で捉え、分類し、意味を与えようとする。りんごは「りんご」であり、木は「木」であり、私と他者は「別個の存在」であると認識する。しかし、井筒先生は、この言語による分節化以前に、すべてが未分化で融合した、ある種の「根源的意識」の場が存在すると指摘する。これは、西洋的な「認識主体と客体」の二元論が成立する以前の、根源的な一元性の意識状態である。彼はこれを、仏教の唯識派における「アラヤ識(阿頼耶識)」や、イスラーム神秘主義における「唯一の存在としての神の意識」といった概念を援用して説明する。
この「絶対無分節状態」とは、理性的な把握を拒む、しかし私たち一人ひとりの存在の基底に横たわる、潜在的な可能性の淵源である。それは、言葉の網の目にかかることのない純粋な「経験の場」であり、あらゆる意味や価値が生成する前の、無垢な「沈黙の空間」である。啓示的な側面は、まさにここにある。私たちは通常、言語や概念のフィルターを通してしか世界を認識できないが、井筒先生は、そのフィルターを剥ぎ取り、意識の最深層に触れることで、世界と自己の根源的な「あり方」に気づくよう促すのである。それは、通常の意識の枠組みを超えた、内的な覚醒、あるいは「悟り」にも通じる体験への呼びかけである。
意味の生成:無分節から分節へ
『意識と本質』の最も魅惑的なテーマの一つは、この「絶対無分節状態」から、いかにして我々が生きる「意味の分節化された世界」が立ち上がってくるのか、という「意味の生成論」である。井筒先生は、この生成のプロセスを、二つの段階に分けて論じる。
第一の段階は、「自己意識の目覚め」である。根源的意識が、自らを「意識する」という、ある種の「反転」を起こすことによって、そこから「自己」と「他者(非自己)」という最初の二元性が生じる。しかし、この段階における二元性は、まだ固定されたものではなく、流動的でダイナミックな関係性の中にある。それは、ブーバーの「我−汝」の関係にも通じるような、対話的な、あるいは相互浸透的な関係性であると言えるかもしれない。
第二の段階は、「言語による分節化」である。意識が自己と他者を区別し始めると、次にその区別を固定し、明確な意味を与えるための「言葉」が生じる。言葉は、世界を対象化し、それを分析し、分類し、名前を与えることで、我々の認識可能な世界を構築する。このプロセスによって、無限に多様な「それ」が立ち現れ、「我−それ」の世界が形成される。科学や技術、そして日常のあらゆる営みは、この言語による分節化の恩恵を受けている。
しかし、井筒先生は、この言語による分節化の必然性を認めつつも、それがもたらす弊害にも警鐘を鳴らす。言語は、世界を理解するための強力なツールであると同時に、世界を本来の全体性から切り離し、断片化し、固定化してしまう危険性を孕んでいる。私たちは、言葉によって構築された「意味の構造」に囚われ、その背後にある、言葉以前の豊かな現実を見失いがちである。本書は、この「言語の呪縛」を意識し、その限界を超えることの重要性を啓示する。それは、言葉がもたらす意味の世界の豊かさを享受しつつも、同時にその限定性を知り、言葉を超えた「沈黙の次元」へと開かれる意識の可能性を示唆している。
東洋思想の普遍性:禅とイスラーム神秘主義の対話
井筒俊彦の研究の特徴は、特定の思想体系に閉じこもることなく、東洋の多様な思想、特に禅仏教とイスラーム神秘主義(スーフィズム)の深層に共通する普遍的な構造を探求した点にある。彼は、これら異文化の思想体系が、表面的な教義や儀礼の違いを超えて、意識の深層において驚くべき共通点を持つことを明らかにする。
例えば、禅における「無」や「空」の思想は、イスラーム神秘主義における「神の存在の唯一性(タウヒード)」の極致、すなわち被造物としての自己が神の存在へと融解し、一切の二元性が消滅する体験と本質的に響き合うと彼は指摘する。これらは、いずれも言語による分節化を超えた「絶対無分節状態」への回帰、あるいはその状態における「根源的意識」との合一を目指すものである。
この比較哲学の試みは、単なる知識の横断的な比較に留まらない。それは、人類の意識が、文化や歴史、地理を超えて、ある種の普遍的な「深層構造」を持っているという、壮大な啓示を提示する。人間は、その本質において、分節化された世界を超えた、より高次の意識状態へと向かう潜在的な能力を秘めている。井筒先生は、東西の神秘思想を丁寧に読み解くことで、この人類共通の精神的探求の道を明るみに出し、私たちに「精神的東洋」への旅を促すのである。それは、自己の内面に深く潜り、意識の最深層に触れることで、自己の存在の根源、ひいては宇宙の根源へと繋がる道である。
言語の限界と「意味の超越」:詩的意識への接近
井筒先生は、既存の概念や言語の枠組みでは捉えきれない「意識の深層」を記述するために、時に詩的で、示唆に富む言葉遣いを採用する。彼は、哲学的な厳密さを保ちつつも、その表現は抽象的な論理に終始せず、読者の内なる直観や感覚に訴えかけるような響きを持っている。これは、彼が「意味の構造」を探求する中で、言語そのものの限界に直面し、それを乗り越えようとした結果である。
彼は、我々の日常的な言語が「我−それ」の関係を固定化し、意味を限定してしまう性質を持つことを深く認識していた。しかし、同時に、言語には、その限定性を一時的に打ち破り、より高次の意味、あるいは「意味の超越」へと開かれる可能性も秘めていると見ていた。それは、詩や音楽、あるいは宗教的な言説が持つ、言葉の「響き」や「示唆」によって、理性的な理解を超えた感覚や直観を呼び起こす力に通じる。
本書における彼の記述は、まさにそのような「意味の超越」を試みる言語行為であると言える。それは、読者に単なる情報を提供するのではなく、読者自身の意識の深層へと働きかけ、内なる「気づき」を促すような、ある種の「瞑想的なテキスト」としての側面を持っている。読む行為自体が、読者自身の意識を変容させ、言葉の限界を超えた世界へと誘う「儀式」のようなものとなる。この点もまた、本書が持つ啓示的な力の一端を担っている。
現代社会への啓示:断片化された自己と意味の再統合
現代社会は、情報過多、専門分化、そして急速なデジタル化によって、私たちの世界認識と自己認識がますます断片化されている。私たちは、膨大な知識やデータに囲まれながらも、個々の情報が持つ「意味」の根源や、それらが織りなす全体像を見失いがちである。また、役割や機能によって定義される「我−それ」的な自己が肥大化し、自己の深い内面や、他者との真のつながりを見失い、深い疎外感を抱える人も少なくない。
『意識と本質』は、このような現代の状況に対して、根本的な啓示を提供する。それは、私たちの意識の最深層に立ち返り、言語による分節化以前の「絶対無分節状態」を再認識することによって、断片化された世界と自己を再統合する道筋を示す。
井筒先生は、我々が生きる「意味の世界」が、あくまでも意識の分節化の産物であることを理解することで、その「相対性」に気づくよう促す。そして、その相対性の認識こそが、私たちが「絶対」なるもの、すなわち言葉を超えた根源的な存在へと開かれるための第一歩となる。それは、個人の内面に深く根ざした「意識の変容」を通じて、世界と自己の新たな関係性を築き直すことを意味する。
本書が提示する「意識の形而上学」は、私たちが、表層的な情報や現象に惑わされることなく、物事の根源的な「意味」と「本質」を見抜くための眼差しを養うことを促す。それは、単なる知識の獲得を超え、生き方そのものを変革するような、深い「智慧」への道である。井筒俊彦の言葉は、まるで深淵から響く呼び声のように、私たちに、私たちの存在の奥底に秘められた無限の可能性に気づき、より全体的で、より真実な自己へと向かうよう、静かに、しかし力強く語りかけてくるのである。