感情のレパートリーを広げるための変容
優れたセラピストになるには、単なる技術習得を超えた個人的な変容が求められます。それは、自分が長年信じてきた価値観や偏見を手放し、時には自分の内面の闇に直面することを意味します。
他者の深い感情に耳を傾けるには、自分自身の感情にも同じように開かれている必要があります。しかし、私たちの多くは、成長の過程で「感じてはいけない感情」「表現してはならない感情」を学び、感情のレパートリーに欠落を抱えるようになります。
これは、親や養育者との関係のなかで、自分の感情が無視されたり否定されたりした経験に端を発します。感情が受け入れられなかった子どもは、その感情を内面で無視し、自分でも感じないようにしていきます。こうして、感情の一部は凍結され、アクセス不能になっていくのです。
感情のレパートリーは、ちょうどピアノの鍵盤のようなものです。ある音が出せなければ、その旋律がどれほど豊かになり得るかを、私たちは想像すらできません。
私たちはセラピストとして、クライアントのある感情にうまく共感できない自分に気づくことがあります。特定の感情に出会うと、無意識に凍りついたり、問題解決に逃げたり、過剰な質問に走ったりしてしまいます。これは、私たち自身の感情の制限が、深い傾聴を妨げている証拠です。
だからこそ、自分自身が感情のすべてに開かれる体験が必要なのです。信頼できるもう一人の他者とともに、自分の中の「音の出ない鍵盤」を再び鳴らせるようになること。それはしばしば痛みを伴う過程ですが、真に他者にチューニングされた聴き手となるための、本質的な道です。
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例えば、会話の中で、「セックス」という言葉を絶対に言えない人がいました。英語でも言えませんでした。それは分かりやすい、顕著な例ですが、もっと分かりにくい形で、音の鳴らない鍵盤がそれぞれの人にある。
しかしまた、人間の脳は、適度な程度にあいまいである。正確にそのような経験も感情もないけれれども、なんとか理解して、感じることも、できることがある。それを正確な意味で理解とか共感と言っていいのか、躊躇するところでもあるが、あいまいに、まあまあ、通じていると感じられることもある。想像力的な感覚というものなのだろう。
厳密に言えば、同じ体験もないし、同じ感情もないし、同じ身体反応もないわけである。被害妄想も違う、うつ感情も違う、パニック障害の身体反応としての、動悸とか呼吸困難も人によって違うはずだ。ピアノの調律の話で言えば、チューニングが違えば、ピアノの同じ場所だからいと言っても、同じ音とも言えない。
それぞれに微妙に異なるチューニングになっているはずである。そして、微妙にずれたままでいいので、弾けば、それなりに、まとまった曲になって、伝わるわけで、ゲシュタルトが伝わることになる。それくらいあいまいで幅のあるものだと思う。
そして想像力的になるなら、体験の拡張ができる。この場合、拡張は、外延とか、延長とか、外挿とかの言葉が当てはまると思う。
実験で得られた範囲内に、データはないけれども、グラフを延長して、予想すれば、だいたいこの値、と見当がつく。それで十分であるような気もする。そのそもが同じ経験ではないのだから。
「あのとき同じ夕焼けを、美しいと言ったあの日の、心と心がもう通わない」とかいった歌詞があるけれども、同じ夕焼けを見て、同じに感じると、だいたい思っているだけで、同じではないはずだし、でも、だいたい同じで通じるわけだし、でもまた、時間がたって、それが通じないと、知るときもあるわけで、まあ、昔よりは距離ができたと思うのだろう。
絶対音感で感じている部分もあるのだろうし、メロディのまとまりで感じているなら、適当に移調していても、通じる。音もずれていて、メロディもずれていても、だいたいで分かりあうこともあるだろう。そんなものだと思う。
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想像力的になれば、いろいろと分かりあえると思う。本当に分かっていると証明することはできないけれども。
同じ映画を見て涙を共有していても、分かりあっているかどうかは、永遠に分からないと、現象学では教えていますね。
素朴唯物論的に、物質世界を想定することはできるけれども、われわれが感覚しているのは、現象だけだ。現象が感覚になるわけで、客観的物質世界は感覚できない。すると、現象は各個人によって異なるはずで、しかしそれでも、人間社会が混乱なく回っているのは不思議なことだ。
そのあたりから考えて、やっぱり、素朴唯物論でいいやと言う結論も受け入れやすい。
信号機が赤だということの内的体験は様々だろうけれども、赤は止まれという機能は共有できるなんて、うまくできている。それが規則とか法とか社会というものなのだろう。内的体験については問わない。赤なら止まれだ。その延長として、モナリザは名画だとか、ゴッホが好きとか、モネが好きとか、共有の感覚になる。本当は共有しているかどうか、親しいし、むしろ、違うと考えて当然である。それなのに、モネの絵はきれいだとか好きだとか言い合っていて、展覧会があると大勢の人が押しかけるのも不思議なことだ。
脳内で、人間の手が二本だとか、左右があって、右利きの人が少し多い、中には両手利きの人もいるとか、そのような要素もあって、共通の仕組みが、共通認識になっているのだろう。そのあたりの脳の仕組みさえあれば、生まれて初めてモネの絵を見た人も、だいたい同じような感想を言えるのだろう。本当は学習していることの方が多いのかな。
学習とかコマーシャルの結果とも考えられる。全然そう思わない人をも、そう思わせるのは、コマーシャルにも難しいかもしれない。うっすらとそう思っている人を捕まえて、はっきり、そう思わせるくらいならできそうな気もする。
ネット世界のインフルエンサーが好きなものを好きになって、買いたいと思うなんて、単純なような、複雑なような感じだ。
トランプがXでつぶやくと、国会議事堂にたくさんの人が押し寄せる。韓国大統領はネット世界で感じるところがあって、戒厳令。日本でもいろいろ。ルーマニアの大統領選挙。人間の脳の不完全さを利用している。
「分かる」というところが謎でもある。