感情をひらく
ある日、ふとした瞬間に、自分のセラピストとしての限界を感じることがある。言葉は尽くし、理論も使った。だが、目の前の誰かの深い沈黙に、こちらの心も沈黙してしまう。寄り添いたいのに、触れられない。そんなとき、私は思うのだ――私の内側に、まだ沈黙している感情があるのではないかと。
セラピストになるとは、技術を学ぶだけではない。自分自身の変容が、どうしても必要になる。変容とは、美しい響きのようでいて、実際には痛みを伴う歩みだ。それは、自分が信じていたことを疑うところから始まる。正しいと信じていた判断を手放し、あるいは育ってきた環境の「当たり前」に背を向けることでもある。
私は、人のこころを深く理解したかった。誰かがなぜ生きづらさを感じるのか、なぜ繰り返し同じ場所でつまずくのか――その根を知りたかった。けれどもそれは、単に他者を理解するというより、自分自身の奥底にある「まだ知らない私」と出会い続けることだった。
私たちは誰しも、人生の中で特定の感情を閉ざす術を身につけてしまう。泣いてはいけない場面、怒りを見せてはいけない相手、悲しみを隠さなければならなかった幼少期。そうやって、ある種の「強さ」を学ぶ。けれどその強さは、同時に感情の一部を鍵のかかった箱に閉じ込めることでもあった。
深く聴くとは、相手の言葉をただ受け取ることではない。その瞬間、相手の中に揺れている感情に対して、自分の内側をも開くことだ。だが、開くということは、かつて自分が閉じたままにしてきた場所に再び光をあてることでもある。そこには未解決の痛みが眠っている。涙を止めたあの日の心の震えや、理解されなかった寂しさの名残。
私たちの感情の幅は、生まれながらに備わっているものではない。それは経験によって拡がるものだ。誰かと繰り返しやりとりする中で、自分の感情を調整し、表現する力を育てていく。だが、もしもその相手――多くは親だろう――が、こちらの感情に耳を傾けず、ただ無視するような関係であったなら。その子は、感じること自体をやめてしまう。傷つかないために、そうせざるを得なかったのだ。
そうして、いくつかの感情は「危険なもの」「触れてはならないもの」として扱われるようになる。怒りは家族の秩序を乱すものとされ、悲しみは迷惑なものとされ、喜びすらも「調子に乗っている」と咎められた子どももいるだろう。感情とは本来、私たちが生きるための信号であり、内的な音楽の旋律のようなものなのに――いつしか、その楽器のいくつかの鍵は、沈黙のテープで押さえつけられてしまう。
私は、自分の中にある感情のピアノを思い描く。いくつかの鍵は鳴らない。それに気づかずに、私はずっと偏った旋律で人生を奏でていた。けれど、ある日、患者がふと見せた感情に動揺し、それに応えられなかったとき、私は初めて、欠けた音の存在に気づいたのだ。ああ、ここに、自分の「聴けなさ」がある。私が共にいられなかったのは、その感情を、自分の中でかつて封印してしまったからだ。
セラピストとして他者を深く聴くには、自分の感情にも深く耳を澄ませなければならない。そのために私は、自らがセラピーを受ける必要を感じた。もう一人の人間が、私の内側の沈黙に丁寧に付き合ってくれる時間。そこで、私は少しずつ、自分の中の消えかけた鍵盤を探し当て、静かに、慎重に、その封を解いていった。
変容とは、劇的なことではない。けれど、ある朝、自分の中に新しい響きが増えているのに気づいたとき――以前なら戸惑いで閉じたであろう患者の感情に、そっと触れられたとき――それは静かな喜びである。
感情のレパートリーを広げるとは、自分自身の生き方の幅を広げることだ。他者の痛みにチューニングを合わせることは、自分の内側にもまた新たな呼吸を生む。そのひとつひとつの感情は、どれも私たちの音楽を豊かにする。そして、私たちが他者を聴く力を増すとき、それはまた、自分をより深く理解する旅でもある。
静かに、鍵盤をなぞる。沈黙していた音が、またひとつ、響く。
終わりもない営みである。