深く調律された傾聴


音なき声を聴く — 深く調律された傾聴について

言葉にならない声が、確かにこの世界には存在する。
それは、言葉の背後でふるえる沈黙のようなものだ。あるいは、語られざるものが語りかけてくる瞬間。私たちがほんとうに人の話を「聴く」とき、それはただ耳で言葉を受け取るという単純な動作ではない。それは、存在と存在とが調律される、静かで深い出来事である。

哲学者マルティン・ブーバーは、「我と汝」の関係において、他者は単なる客体ではなく、世界とつながる生きた〈汝〉として出会うと語った。まさに、深く聴くこととは、その〈汝〉として他者を迎え入れることだ。
「私があなたを聴くとき、私は私を越えて、あなたの世界に触れる。」


赤子と母、言葉以前の交感

調律(チューニング)という概念が最も鮮やかに立ち現れるのは、乳児と母のあいだの交流においてである。言葉を持たない赤子は、それでも明確に自らの状態を表現する。泣く、身をよじる、手を伸ばす、まなざしを投げる。その非言語的な信号を、母は(必ずしも正確ではないとしても)感受し、応答しようとする。

それは、三つの段階からなる精妙な舞踏だ。

  1. 表現(signal)
  2. 受容と解読(receiving & decoding)
  3. 応答(response)

ここで特筆すべきは、応答とは単なる模倣や反射ではなく、応答者自身の身体と心を通してなされるものだということだ。応答には常に「私」が含まれており、だからこそそれは生きた応答となる。他者の信号に自らの内側を照らし合わせ、心を震わせながら返す声。それは応答であると同時に、自己の証でもある。


傾聴とは、二重の耳を持つこと

深く調律された傾聴とは、ある意味で**「二重の耳」をもつこと**である。一つは、他者の言葉に向けられた外耳。もう一つは、自らの内なる動きに耳を傾ける内耳。

この二重性は、音楽の演奏に似ている。演奏者は楽譜を読み、音を出すと同時に、自らの演奏を聴き取り、空間に響く音を感じている。つまり、発信と受信が同時に存在しているのだ。

さらに別の二つの耳を挙げれば、患者の語る言葉を聴きながら、私たちはそれを表層的な情報としてだけ処理するのではなく、その言葉の「下」にある何かを聴こうとする。その何かは、多くの場合、感情であり、さらに深いところでは、身体感覚や自律神経の変化、つまり呼吸、脈拍、筋緊張のようなものである。


傾聴の三層構造:思考・感情・身体

人間の脳は三層構造をなしているといわれる。最も外側にあるのが思考の脳(新皮質)、その内側に感情の脳(辺縁系)、さらに深く、身体の自律的機能を司る脳幹がある。

私たちが他者を「聴く」とき、本当に求められているのは、この三層すべてを通して聴くことではないか。

  • 言葉の意味を理解する思考としての聴き方
  • 相手の感情にチューニングする感情的な聴き方
  • 相手の身体的緊張や呼吸のリズムまで感じ取る身体的な聴き方

このような「三重の耳」で聴くとき、私たちは相手の存在そのものを、全身で受け取ろうとしている。


「ステレオ」的内省:私の中で何が動いたのか

深く聴くためには、自己内省の力が不可欠だ。他者の語りに耳を傾けながら、自分の身体の中をスキャンする。胸が締めつけられる感じ、腹部の緊張、涙が浮かぶような感覚、逆に感情の動きが止まってしまうような瞬間—それらはすべて、他者との共鳴の記録である。

このような聴き方は、まるでステレオ録音のようだ。一つのチャンネルには相手の語りが、もう一つのチャンネルには自分自身の身体感覚が刻まれていく。
そして両者の響きがどこかで重なったとき、そこに治癒的な「間(あいだ)」が生まれる


沈黙という名の音楽

あるとき、ひとりの来談者が静かにこう言った。「先生、今、なにも話してないのに、なにか届いている気がします」と。

それは、言葉を越えたところで何かが届いた瞬間だった。調律とは、必ずしも音を出すことではない。沈黙の中でこそ調和は訪れる。音楽が休符によって深まりをもつように、聴くこともまた、沈黙によって洗練されていく。


結び

深く調律された傾聴とは、単なる技法ではない。それは存在のしかたであり、他者への姿勢である。
それは、相手を治そうとすることではなく、理解しようとすることでもない。
ただそこにあり、開かれていること。受け取ろうとすること。
そして、自らもその出会いに変容していく覚悟をもつこと。

人と人とがほんとうに出会うとき、そこには言葉を超えた音楽が流れている。
その音楽に耳をすませること。
それが、「聴く」という行為の、本当の意味なのかもしれない。


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