医学において、「症」と「病」の使い分け

医学において、「症」と「病」の使い分けは、歴史的な経緯や概念の変化によって多少の揺らぎがありますが、基本的な区別があります。

「症」と「病」の使い分け

  • 「症」 (症候):
    • **症状(symptom)症候群(syndrome)**を指すことが多いです。
    • 患者さんが訴える個々の身体的・精神的な「不調」や、いくつかの症状がまとまって現れる特定の状態を指します。
    • 原因が明確でない場合や、病気の初期段階、あるいは特定の病気に限らず共通して見られる症状のまとまりに用いられます。
    • 例: 貧血「症」、過敏性腸「症候群」など。
    • 「症候群」は、複数の症状が一定のパターンで現れるものの、その根本的な原因がまだ十分に解明されていない状態によく使われます。しかし、近年では原因が明らかになったものにも使われる傾向があります。
  • 「病」 (疾病):
    • 疾患(disease)、つまり特定の原因や病態、経過が明確に定義された状態を指します。
    • 診断基準や治療法が確立されている場合が多いです。
    • 多くの場合、生物学的な根拠や病理学的な変化が伴います。
    • 例: 糖尿病、心臓病、癌など。

概ねの傾向としては、「症」は症状やそのまとまりを、「病」は診断された特定の疾患を指す、という違いがあります。 ただし、完全に厳密に使い分けられているわけではなく、語呂や慣習によって使われることもあります。

神経病と神経症

  • 神経病 (neuropathy / neurological disease):
    • 主に脳、脊髄、末梢神経などの器質的な損傷や機能障害によって引き起こされる疾患を指します。
    • 客観的な検査(MRI、CT、神経伝導検査など)で病変が確認できる場合が多いです。
    • 例: パーキンソン病、アルツハイマー病、脳梗塞、多発性硬化症など。これらは「神経内科」が専門とする領域に含まれることが多いです。
  • 神経症 (neurosis):
    • かつて精神医学の分野で使われた用語で、心因性の精神的な不調を指しました。器質的な病変は認められず、主に心理的な要因(ストレス、トラウマなど)によって引き起こされる精神的な症状が特徴でした。
    • 「ノイローゼ」という言葉も神経症のドイツ語訳から来ています。
    • 主なものとして、不安神経症(現在の不安障害)、強迫神経症(現在の強迫性障害)、恐怖症などがありました。
    • しかし、精神医学の診断基準であるDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)やICD(国際疾病分類)では、1980年代以降「神経症」という診断名は使われなくなり、より具体的な「不安障害」「強迫性障害」などの診断名に置き換えられています。
    • そのため、現代の医学においては「神経症」という用語が正式な診断名として用いられることは少なくなっていますが、臨床現場や一般では依然として使われることがあります。

まとめると、神経病は脳や神経の「器質的な病気」を指し、神経症はかつて用いられた「心因性の精神症状のまとまり」を指す、という違いがあります。

分裂病と統合失調症

  • 分裂病:
    • 統合失調症の旧病名です。
    • この名称は、ドイツの精神科医ブロイラーが提唱した「Schizophrenie(スキゾフレニー)」を「精神分裂病」と日本語に訳したものです。しかし、「精神が分裂する病気」という言葉の響きが、多重人格と誤解されたり、患者さんや家族に強い偏見やスティグマを与えたりする原因となっていました。
  • 統合失調症:
    • 2002年8月に、日本精神神経学会が「精神分裂病」という病名から**「統合失調症」に名称を変更**しました。
    • この名称変更の主な理由は、旧病名が持つ負のイメージを払拭し、患者さんがより社会参加しやすくなるようにするためでした。
    • 「統合失調症」は、脳の機能がうまく統合されなくなることで、思考、感情、行動などがまとまりにくくなる病気であることを示唆しています。決して多重人格とは異なり、脳機能のバランスが崩れることを意味しています。

したがって、分裂病と統合失調症は同じ病気を指し、統合失調症は分裂病の新しい名称であるという関係にあります。


英語圏では「Schizophrenia」という名称は変更されていませんが、日本が「精神分裂病」から「統合失調症」に名称を変更したのには、以下のような非常に切実な理由がありました。

日本で名称変更が行われた主な理由

  1. 「精神分裂病」という言葉が持つ深刻な誤解と偏見、スティグマ:
    • 多重人格との混同: 「分裂」という言葉が、あたかも精神が複数に分裂してしまう、多重人格のような病気であるかのような誤解を生みました。これは、実際の統合失調症の病態とは全く異なります。統合失調症は、思考や感情のまとまりが失われる病気であり、人格が複数になるわけではありません。
    • 人格の否定と尊厳の侵害: 「精神が分裂する」という表現は、患者さんの人格そのものが壊れてしまう、正常な人間性がない、といったネガティブなイメージを強く与えました。これにより、患者さん自身やご家族が強い苦痛を感じ、自己肯定感を損なう原因となっていました。
    • 社会的な差別の助長: 病名が持つ恐ろしいイメージから、社会全体でこの病気に対する偏見や差別が根強く存在し、患者さんの社会復帰や社会参加を著しく阻害していました。就職や結婚などの社会生活において、大きな障壁となっていたのです。
  2. 病名告知の困難さ:
    • 旧病名があまりにネガティブなイメージを持つため、医療従事者でさえ、患者さんやご家族に病名を告知することに大きなためらいがありました。告知をしても、その後の患者さんの混乱や絶望が大きく、治療への協力が得られにくいという問題も生じていました。適切な診断名が伝えられないことで、病気への理解や治療への参加が遅れるという弊害がありました。
  3. 患者・家族会からの強い要望:
    • これらの問題に長年苦しんできた患者さんやそのご家族の団体である「全国精神障害者家族会連合会」が、1993年に日本精神神経学会に対して病名変更の検討を強く要望しました。これは単なる名称変更ではなく、精神障害に対する差別と偏見をなくしていくための重要な活動の一環と位置付けられていました。
  4. 医学的概念の変化と治療の進歩:
    • 旧病名が制定された時代には、統合失調症は不治の病、あるいは悪化の一途をたどる病気という悲観的な見方が主流でした。しかし、その後の研究の進展により、脳の機能統合の失調であるという病態理解が進み、非定型抗精神病薬の登場など治療法も大きく進歩しました。早期発見・早期治療や心理社会的な支援によって、多くの患者さんが回復し、社会生活を送ることが可能になってきたのです。このような医学的な進歩も、病名変更を後押しする要因となりました。

海外で名称変更が進まない背景

海外、特に英語圏で「Schizophrenia」の名称が変更されないのは、いくつかの理由が考えられます。

  • 「Schizophrenia」の語源と解釈の違い: 「Schizophrenia」はギリシャ語の「schizein(分裂する)」と「phren(精神、心)」に由来しますが、ブロイラーがこの用語を提唱した際、これは「精神そのものの分裂」ではなく、「思考や感情、行動などの精神機能のまとまり(統合)が失調する」という意味で用いました。つまり、日本語の「精神分裂病」がストレートに「精神が分裂する」と解釈されたのに対し、欧米ではその医学的な概念が比較的正確に理解されていたという側面があります。
  • 歴史的経緯と学術的慣習: 長い歴史を持つ学術用語であり、変更には学術界全体での合意形成が必要となります。これまでの研究論文や教科書など、膨大な文献で使われている用語を変更することは、混乱を招く可能性も考慮されます。
  • スティグマの文化的な差異: 精神疾患に対するスティグマは、国や文化によってその性質や強さが異なります。日本では特に「精神分裂病」という言葉が持つ負のイメージが強烈だったため、名称変更の必要性が高く認識されました。欧米でもスティグマは存在しますが、病名そのものが持つイメージよりも、病気そのものに対する誤解や差別が問題視される傾向があるのかもしれません。
  • すでに代替表現が存在: 完全に病名を変更せずとも、「精神疾患(mental illness)」や「精神障害(mental disorder)」といったより包括的な表現や、具体的な症状を指す言葉を用いることで、スティグマを回避しようとする動きはあります。

ただし、アジア圏では日本に続いて、韓国(정신분열병 → 조현병)、中国(精神分裂症 → 精神分裂症のままですが、口語では「思覚失調」)、台湾(精神分裂病 → 思覺失調症)、香港、マレーシアなど、複数の国が同様の理由で名称変更を行っています。これは、漢字文化圏において「分裂」という言葉が持つ意味合いが、欧米とは異なる影響を与えた可能性を示唆しています。

このように、日本の「精神分裂病」から「統合失調症」への名称変更は、単なる言葉の置き換えではなく、患者さんやご家族の尊厳を守り、社会的な偏見をなくし、より良い治療と社会復帰を促進するための、患者中心の医療への大きな転換点となりました。


アジアの漢字文化圏では、日本と同様に「精神分裂病」という旧病名が持つネガティブなイメージや偏見が大きな問題となっていたため、名称変更を行った国・地域が複数あります。

香港での変更

香港では、日本の「統合失調症」への変更よりも少し早く、「精神分裂症 (精神分裂症)」から「思覺失調症 (思覚失調症)」へと名称が変更されました。

  • 旧名称: 精神分裂症 (Jīngshén fēnliè zhèng)
  • 新名称: 思覺失調症 (Sījué shītiáo zhèng)

「思覺失調 (Sījué shītiáo)」は、「思考と知覚の失調」という意味合いを持ちます。これは、統合失調症の主要な症状である、思考の混乱や現実認識の歪み(幻覚や妄想など)をより適切に表現しようとしたものです。この変更も、患者さんやその家族が抱えるスティグマを軽減し、より早期の受診や治療を促すことを目的としていました。

マレーシアでの変更

マレーシアも、日本の影響も受けつつ、同様の理由で名称変更を行っています。マレーシアは多民族国家であり、公用語はマレー語ですが、英語や中国語も広く使われています。

マレーシアでも、中国語圏のコミュニティでは「精神分裂病」という呼称が使われていましたが、これも**「思覺失調症 (思覚失調症)」**へと変更が進められています。

  • 旧名称 (中国語): 精神分裂症
  • 新名称 (中国語): 思覺失調症

マレー語や英語圏のコミュニティでは、元々「Schizophrenia」の直訳ではない、より穏やかな表現や、症状を具体的に示す言葉が使われることもありますが、中国語圏での名称変更は、特に漢字が持つ直接的なイメージによる偏見を解消するための重要なステップでした。

まとめ

これらの名称変更は、単なる言葉の置き換えにとどまらず、精神疾患に対する社会的な理解を深め、患者さんがより生きやすい社会を築くための重要な取り組みです。特に「分裂」という言葉が持つネガティブな意味合いが、アジアの漢字文化圏において共通の課題であったと言えるでしょう。

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