〈特別公開〉 対談 日本滅亡を回避できるか(柳井正×寺島実郎)
2025.07.28
荒野をめざしていた青年たち
寺島 私と柳井さんは団塊世代、私は北海道出身で、柳井さんは山口県の出身。同じ時代に地方から上京し、同じ早稲田大学政治経済学部で学びました。全共闘運動の最盛期で、政治を学んでいた私のまわりには、運動に参加する学生がたくさんいました。熱い政治の季節でした。
柳井 私は経済のほうだったからか、政治学科ほど学生運動の熱は高くなかったかもしれません。とはいえ、政治と経済が一緒というのは、それはそれでよかったです。
寺島 私たちはジローズが歌った「戦争を知らない子供たち」でもありました。戦争を背負わざるをえなかった先の世代に対して、幸いなことに私たちは平和が訪れた時代に育ち、右肩上がりの経済成長のなか青春期を過ごした。学生時代を振り返ると蘇るのが「若者たち」。「君の行く道は果てしなく遠い」という歌がいつも流れていた。
柳井 確かにあの歌はよかったですね。私の原体験のひとつが、大学一年生のときに参加した「早稲田船上大学」です。船で香港を経由してシンガポールまで行き、そこからバスに乗り換え、マレーシアを越えてタイのバンコクまで行くというプログラムでした。船旅を経験して思ったんです。太平洋は、隅田川と一緒だ、アジアは近いな、と。
翌年、世界一周をしようと思い立ち、父親に頼んで旅費を出してもらいました。学生運動で大学が閉鎖されてしまって、やることもなかったからです。それで客船に乗り込んで、アメリカを目指しました。イギリス客船の一等客室だったのですが日本人の乗船客に与えられたのは隅っこの席。これが人種差別か、と感じました。
寺島 私たち世代で「旅」といえば、思い浮かぶのが五木寛之さんの『青年は荒野をめざす』です。『平凡パンチ』で連載を開始したのが、私が大学に入学した1967年でした。五木さんが語った「青年」が、私であり、柳井さんだったわけです。柳井さんは「アジアは近い」「世界一周」という言葉を口にしましたが、柳井さんにとっての「荒野」は、そこだったんですね。
柳井 やはり世界を見なければ何もはじまりませんからね。当時の日本は――いまもそうですが――アメリカを通してしか世界を見ない。アメリカだけではなく、広く世界を見なければ、という意識はありました。
寺島 大学二年で世界一周ということは、1968年ですか。1968年は「若者の叛乱の年」です。ベトナム反戦運動などをきっかけに世界各地で学生たちが立ち上がり、パリで五月革命が起き、日本やアメリカにも飛び火しました。当時の若者たちの多くは、ソ連という社会主義国家に対して理想郷のような幻想を抱いていた。彼らの目を覚ましたのが、「プラハの春」です。チェコスロバキアで民主化を求めて立ち上がった人たちを、ソ連軍の戦車が蹴散らした。アメリカも、ソ連も、なにか違うのではないかと、多くの人が気づきはじめた時期でもあります。
柳井 その気づきとは、アメリカの両面性ではないですか。民主主義を尊ぶアメリカと、新たな産業を興しながらも軍拡を進める産業軍事複合体としてのアメリカ。一方で戦後、ソ連がどんどん力を強めていった。ベトナムの社会主義化、共産主義化が、東南アジア全体の共産主義化につながるという「ドミノ理論」で、アメリカはベトナムに侵攻しますが、やがて反戦の気運が高まっていく。私がアメリカを旅した1968年はまさにそのただ中でした。人心が荒廃していたのか、治安が悪く危険な感じがしました。むしろ、メキシコシティはとても穏やかで安全に過ごせました。
寺島 アメリカのトランプ大統領は1946年生まれの同世代。まさに柳井さんがアメリカを旅した1968年にトランプもペンシルベニア大学に通っていました。ベトナム反戦運動が吹き荒れた年で、彼も時代と無関係ではなかったはずです。
トランプの青春時代に直結するのが、アカデミー賞を受賞した映画『7月4日に生まれて』。主人公はトランプと同い年の男。同じくニューヨークで生まれて、徴兵されベトナムに送られる。負傷して帰国したら、反戦の気運が高まり、世間の冷たい視線と、間違った戦争に加担したという自責の念に苛まれ、やがて反戦運動に参加する……。ベトナムについて意識せざるをえない世代だった、はずです。
ところが、トランプ自身が自伝で記したように彼はベトナムに一切関心を示さずに、父親と不動産業に勤しんだ。シンシナティの低所得者層が住む地区を再開発し、住人たちを叩きだして、大プロジェクトを成し遂げたと自慢している。当然ですが、同じ叛乱の年に青春期を過ごしたとしても、それぞれがそれぞれの道を歩んだ。柳井さんは、学生運動が盛んだった時代に政治的なイデオロギーに染まった集団とは距離を置き、海外を見たほうがいいと世界へと旅に出たんですよね。
心の鎖国
柳井 約100日間で世界を一周したのですが、私にとっては大学で勉強したことと同じくらい大きな影響を受けました。地元である山口県宇部市の外でも商売ができるのではないか。そんな漠然とした感触がえられた。それが、私の商売の発想の大切な原点になっています。
ところで、寺島さんはなぜ商社に入ったんですか?
寺島 ふたつの動機がありました。ひとつは、柳井さんが、旅をした理由と同じで、私も広く世界を見たいと三井物産に入社しました。翌年にロンドンにわたり、欧州法人の設立にかかわりました。ふたつ目が、日本資本主義の総本山の動きを本当に味わってみようという想いでした。ところが、三井物産が推進したIJPC(イラン・ジャパン石油化学)という大型プロジェクトが、1979年のイラン革命で頓挫し、会社がつぶれかける事態となった。それから私は、イラン、イラク、イスラエルといった中東地域に張り付きました。右肩上がりの時代に大企業に入って安泰かと思えば大間違い。中東の出来事が自分の人生につながる衝撃的な経験をしました。
柳井さんの世界一周の話をうかがい、さらに私自身の中東経験を振り返ると突きつけられるのが、いまの日本が「新たな鎖国」というべき状況に陥っている現実です。昨年、日本人のパスポート保有率が16.8%まで落ち込みました。
柳井 日本人が行く外国といってもほとんどが韓国やフィリピンなどの近隣の国ばかりですからね。
寺島 アメリカといってもハワイ、グアム、サイパンが半分以上です。
柳井 経済の落ち込みや円安もあり、ハワイ旅行も減ってしまった。国内旅行ですませる人も少なくありません。「実体験としての海外」に縁がない日本人が増えた。いわば、心の鎖国といえる状況が続いています。
寺島 昨年海外に出た日本人は、のべ1301万人。海外に出た実人数で考えれば、400万人を割るでしょう。日本全体が内向きになり「イマ・ココ・ワタシ」にしか関心を示さない人が増えている。日本人が世界に対して根底的な関心を失っているようにみえます。
柳井 非常に危険な兆候ですよね。私が心配しているのが、円安に加え、ドル体制の崩壊の可能性です。ドル安を望むアメリカ大統領なんて、いままでにはいなかった。日本にも「円安でいいや」という空気があるでしょう。
寺島 以前、柳井さんとアベノミクスについて議論をしましたよね。この経済政策が蠢きはじめた十数年前から、私は一貫して批判的な立場でした。日本経済を毀損する調整インフレ政策。経済人や日本のリーダーがアベノミクスをどう評するのかを注視してきました。
なかでも柳井さんの「アベノミクスのマイナス金利は、経済倫理を損ねる」という発言が忘れられません。歯を食いしばって金利にたえながらビジネスを成功させるのではなく、マイナス金利政策は、借金したほうが有利だというロジックにつながります。易きに流れるような経済観は間違いだと柳井さんは喝破された。易きに流されて、円安と株高に誘導した結果が、いまの日本です。
柳井 金融緩和、デフレ脱却を目指して金融操作だけをやっても経済が上向くわけがありません。日本の産業構造を変換する、あるいは、新たな産業を一つひとつ育成する。本来はそうした地道な政策を手がけるべきでした。それでも、国民の多くが、いまもそれなりの生活を送れているのは、借金をしているからです。そんな経済が続くわけがない。限界はすぐそこまできているかもしれません。
創造力と生命力の喪失
寺島 世界のGDPに占める日本の割合がピークアウトしたのは31年前の1994年。当時は17.8%を占めていました。しかし昨年は3.6%とついに4%を切った。
最近、日本の埋没を考える上でヒントになる本を改めて読みました。C. P. キンドルバーガーの『経済大国興亡史 1500―1990』です。彼は「創造力と生命力」という言葉を使って各大国の興亡を分析していて、最終章では日本にも触れています。96年の時点で、いまはまだ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の余韻を引きずっているが将来は決して楽観できない、とその後を見抜いている。
1994年以降の30年で日本は何を失ったのか。戦後の焼け野原から立ち直り、戦後復興から高度成長へと走り続けた時代の人たちには、必死さがあった。キンドルバーガーのいう創造力と生命力を育んだのが、戦争を生き延びた喜びです。世界をあっと驚かせるような独自の技術やビジネスモデルを構築してきた日本が、やがてグローバルスタンダードで満足して勢いがなくなり、いまやそこからも置き去りにされてしまった。
では、そのなかで1994年以降の日本が生み出した世界に対抗できるビジネスモデルは何か。私は、数少ないひとつが、ユニクロだと考えています。
21世紀の日本の家計を分析すると、24年前に比べて衣料品に対する支出が4割落ちている。そんな時代にユニクロをはじめとするファーストリテイリングはどんどん成長していった。いまや国内外に約3600のグループ店舗があり、3兆円以上の売上がある。売上は90年代の100倍以上。ユニクロは、多くの日本企業が失った創造力と生命力を維持することができた。
柳井 日本は、戦前、繊維の輸出大国でした。戦後アメリカの大学生協から着想を得て、私たちはそれまでの「洋服」にカジュアルという概念を持ち込んだわけですが、ユニクロの成長を支えてくれたのが、間違いなく日本の繊維産業や、戦前から培ってきた技術だったんです。
寺島 私は時々ユニクロの店舗に足を運んでいるんですが、ロンドン中心部のリージェント・ストリートやニューヨークの店舗を覗くといつも驚かされます。入店するたびに予想を裏切られ、毎回、進化が感じられるからです。企業・アーティストとのコラボレーションや、DXを取り込んだ経営システムなど、創造力と生命力の賜物だと感じました。柳井さんはその根源は何だと思いますか?
柳井 「世界のなかの日本」という感覚かもしれません。内向きになり、海外に出なくなったという話にも通じますが、「世界のなかの日本」という意識が薄れた結果、日本企業が停滞し、日本人が自信を失ってしまった。第二次世界大戦後に、当時の池田勇人首相がソニーのトランジスタ・ラジオを熱心にPRして、フランスのド・ゴール大統領に「トランジスタのセールスマン」と揶揄されたでしょう。それでも、池田勇人は海外に日本の売り込みを続けました。いまは政治家にも、ビジネスマンにもそうした気概が足りないのではないかと感じます。
しかし、いまの日本企業にも勝機はある。海外のリーダーたちは、日本企業がその国に対して敵対的な商売や活動をする心配がないと考えています。だから海外の企業やデザイナー、文化団体も、日本企業のユニクロという名前を出せば、話を聞いてくれる。
ユニクロには、海外に進出する際に確認すべき「三つの問い」があります。ひとつ目の問いが、「その国の同業他社と何が違っているか」。違いがないのに進出しても意味がありません。ふたつ目の問いは、自分たちや提携先の企業が「世界に対して何かよいことをしているか」。よいことをしていない企業はその国やその国の人たちに歓迎されません。三つ目が「この国に対して、何かよいことができるか」。進出により、その国の社会にどんな貢献ができるか。
このような姿勢が功を奏してか、海外からも「こんな建物があるので、新たな店舗をつくったらどうか」と提案をいただくケースがたくさんあります。昔は人通りが多かった繁華街やメインストリートが郊外型ショッピングセンターの進出によって、海外でも寂れてしまっている。そこを利用して、賃料を抑えつつユニクロのフラッグシップストアをつくっています。Win-Winの関係を築けているのは「世界のなかのユニクロ」を意識しているから。この感覚を持てれば、日本企業にもまだまだチャンスはあるはずです。
寺島 なるほど。敗戦で「世界のなかの日本」を突きつけられたからこその、戦後の高度経済成長だったのかもしれませんね。
100年前の世界を知る力
寺島 裏を返せば、敗戦を経験するまで日本は「世界のなかの日本」を意識するのが苦手だったのでしょう。第一次世界大戦の戦後処理のために開かれたベルサイユ講和会議にも出席した牧野伸顕が戦後、回顧録を書いています。日本がなぜ近代史に失敗したのか。それは「国際事情の理解に欠けること」、つまり世界を知る力が弱かったからだ、と。
柳井 世界が見えなくなった一因が、日清戦争と日露戦争の勝利なのではないでしょうか。清とロシアに勝ったのだから、アメリカにも勝てるのではないか、有利な条件で交渉を行なえるのではないか。そんな甘い考えで真珠湾攻撃に踏み切った。アメリカのフロンティア精神と、勃興する日本の富国強兵が、中国やアジアの市場で対立するのは必然だったという見方はあるにせよ、国力があれほど違うのに戦争をはじめるなんて無謀でしかありません。
寺島 世界を知る力という点で、私が注目しているのが、100年前――つまり1920年代が現在の国際情勢と近似しているのです。第一次大戦後の厭戦と内向の空気の中で、ウッドロー・ウィルソンが提案した国際連盟構想にアメリカ自身が加盟せず、その後共和党政権が三代続くことになった。その当時のアメリカのキャッチフレーズが、皮肉なことに「アメリカファースト」でした。
もうひとつの共通点が米国流資本主義の謳歌です。大量生産、大量消費社会を築き、労働者でも自動車を買える社会にするという考え方を、フォード社を率いたヘンリー・フォードが打ち出した。その頃の時代思潮が「貯蓄から投資へ」。今日本が向き合っている二つのキーワードがそっくり100年前に吹き荒れていた。その結末が1929年の大恐慌でした。この構造は現代のアメリカにも通じ、シリコンバレーを中心とするデジタル資本主義とウォールストリートを中心とする金融資本主義の結節した現トランプ政権に通ずるわけです。
他方、日本はどうか。1920年代は、政党政治や政治家に対する失望感が蔓延していました。それが、30年代の五・一五事件や二・二六事件につながっていく。腐敗した政治家よりも、もはや軍人のほうが真剣に日本のことを考えている――そんな空気が漂っていました。
柳井 100年前のアメリカも日本もともに内向きになり、やがて戦争に突入するというわけですね。そしていま、日本もアメリカも内向きになっている。
寺島 いま、世界秩序の再編が議論されています。「アメリカなき世界システム」といわれますが、米中露が裏で手を組む「大国間共謀」の時代に進んでいく懸念もある。
柳井 戦後、アメリカは自由と民主主義の国を掲げながら、世界の覇権をとろうと考えた。しかし中露の台頭によって覇権を握るのは難しくなった。そこで大国間で分配する方向に舵を切ったのでしょう。
戦後100年を迎える前に
柳井 日本に目を転じれば、自由と民主主義を守るために、覇権国家の顔を持つアメリカとの同盟を維持するのは、矛盾しています。日本中にあれだけ米軍の基地がある事実は、戦後の占領状態が終わっていないことを意味します。自衛と平和について、改めて議論し、海外に向けて発言しなければならない。それなのに、日本は武器輸出国になろうとしているわけでしょう。黙してアメリカに依存する状況を変えて、日本は平和主義に徹するべきです。
寺島 私は日本が沈黙を破るチャンスだと考えています。トランプは日米同盟の〝片務性〟に疑問を投げかけました。日本の駐留米軍経費の引き上げを要求してくるのでしょう。日本としては、長年据え置かれたこの問題を、これを機にしっかり検証する流れをつくるべきです。駐留米軍経費の七割をホスト国が負担する例は日本以外にありません。
柳井 その通りですね。もうひとつ腑に落ちないのは、日本が兵器を買うといって、それはアメリカからだけでしょう。しかも納期も単価も、保守サービスもはっきりしない。通常のビジネスでは考えられません。現状はアメリカから兵器を買うことが目的になっているとしか思えません。日本は無条件降伏したままなのではないか、とすら感じます。
寺島 あと20年で敗戦から100年。敗戦国が進駐軍を受け入れるというケースは山ほどあります。ただし歴史上、100年経っても受け入れる側が「是非いてもらいたい」という形で、外国の軍隊を駐留させるなんて話があるのか、ということです。
柳井 当然ですが、外国の軍隊に頼ってばかりいていいわけがない。自分たちがコントロールできる自衛のための組織を持たなければなりません。
寺島 もちろん自主防衛はひとつのプリンシプルです。同時に、同じ熱量をもって、防衛の前段にやるべきことを議論しなくてはなりません。どのように危機をミニマイズするか、回避するにはどうすればいいのか。
いまは東南アジアの国々が力を付けてきています。IMFは10年後にインドネシアが日本のGDPを抜くと試算しています。そのなかで、シンガポールをのぞくASEANの9カ国が核兵器禁止条約に署名しています。そこで必ず出てくる質問が「なぜ、ヒロシマ、ナガサキを背負う日本が核兵器禁止条約に入らないのか」。
柳井 それはもっともな問いです。不自然な状況です。
進むアメリカ離れ
寺島 トランプはほかにも、日本車の安全基準を「非関税障壁」だと主張しているでしょう。いわゆるトランプ関税に対して、日本への関税の引き下げだけを求めるような卑屈な交渉ではダメです。
関税交渉のなかで浮上しているのが、たとえば日米の造船協力。かつては造船業で世界一を誇ったアメリカもいまや世界シェアはわずか0.1%に過ぎませんが、日本の造船はまだ技術が残されている。こういった分野を活用して、日米の連携を模索する構想力こそが問われています。
柳井 トランプ関税はアメリカが勝手に計算して、一方的に決めただけですよね。本来は二国間で相談して関税率を決めるのが前提です。ほかの国と一緒にアメリカにはっきり「おかしい」と伝えるべきです。TPPも脱退して、完全に自由貿易を否定している。
寺島 いまの柳井さんの心理を世界中で共有しているから、世界中で静かにアメリカ離れが起きている。
柳井 静かにではなく、如実に離れていますよ。いま、世界各地で「アメリカを尊敬しているか」と聞いても、誰もイエスと答えない。尊敬と信頼が失われてしまった。
寺島 東南アジア諸国を対象とした興味深い調査があるのですが、「中国とアメリカのどちらについて行きますか?」というシンガポールのシンクタンク・ISEASの有識者への意識調査です。一昨年までは拮抗しつつもアメリカのほうが多かった。しかし昨年から逆転した。米軍基地があるシンガポールとフィリピンはアメリカの支持が多いですが、ASEANの中核たるインドネシア、マレーシア、タイが中国への支持が多数派となっています。アメリカはアジアでも孤立しはじめているんです。
柳井 ヨーロッパでもすでに孤立しているのでは?
寺島 その反動で、ヨーロッパはアジアに接近しています。イギリスのTPP加盟もその動きのひとつです。今後、欧州とアジアの連携も大きな流れになるかもしれません。
柳井 日本がアメリカとともに世界から孤立してしまう恐れもあります。それを避けるためにも日本は同盟国として、アメリカに忠告したほうがいい。その権利も義務もある。
寺島 それは今後の日米関係の大きなポイントですね。アメリカの孤立に、どれだけ危機感を持っているのか。アメリカに対して、どれだけの義務と責任を感じているか、日本のリーダーの世界を見る目が試されています。
柳井 日本が独立した平和主義国家として、アメリカとの関係を改善し、隣国やアジアの国々と共存共栄していくためには何が必要なのか。政治の場だけではなく、私たち国民も議論を深めていく必要がありますね。
寺島 柳井さんが繰り返し唱えてきたアジアとの連帯が、これからの日本再生の鍵になると思います。発展する東南アジアのダイナミズム――いわば創造力と生命力を吸収すること。そのために日本はアジアからのリスペクトを受けられるようなふるまいが求められます。
柳井 同感です。アジアから様々な産業に知見を持つ研究者や、留学生を招いて、日本は「アジアの学習拠点」になるべきなのではないかと考えます。同時に、日本人もアジアに―海外に出て行き、自分の目で「世界のなかの日本」を見つめる必要があります。ただ私が疑問なのは、民間企業や国民が世界に羽ばたける環境をつくるのは国の責務のはずでしょう。それを国は疎かにしている。しかし国民が十分な要求をしているでしょうか。
寺島 コロナ禍や一連のコメの問題にも表れていますが、問題が起きると国からの給付金などに過剰に期待する国民が少なくないように思います。そして、特に若い世代で、苦労して新しい何かを創造するよりも、年金などを将来受け取れるかに意識を向ける人が増えているように思います。
柳井 現状がおかしいと異議を唱えたり、未来について発言したりする人も減ってきましたね。私たちは、安定や平和を享受した世代です。だからこそ、ここで腰を据えて現在の危機と向き合う必要があるはずです。
寺島 「戦後なるもの」をしっかりと伝えていかなければいけない。今の学生と向き合っているとそう感じます。私たちの戦後生まれの団塊世代が責任をもって方向づけるべき問題が山積している。
柳井 そう思います。私たちの世代も、将来の世代も日本についてともに考え、議論していかないと本当に滅亡しかねない。これまでは日本の停滞だったのが、いまは衰退。衰退の行き着く先は滅亡です。滅亡しないためにも、世界にはもっと平和が必要ではないですか。日本はその先頭に立つべきです。