読書 何重にもなった修正のループに、読み手が参加する

 実は我々の経験自体、外界をただ取り込むのではなく、もともと持っていた思い込みや仮説が、行動を通じて作り変えられていくことなんです。つまり外から内への一方向ではなく、内と外との往復的なやり取りによる、修正の繰り返しなんですよ。

では直接体験と読書はどこが違うのか。体験は一回きりなので、後は移ろいやすい記憶に頼るしかない。一方で読書は、書物という変わらないテキストを頼りに何度も読むことができます。経験の本質が修正だとしたら、読書は好きなだけ何度でも繰り返せる。そこが強みなのかもしれません。

 そもそも書物自体、著者だけでなく、何人もの人が関わる修正の繰り返しによって生まれてきます。そうして生まれた本には、色んな人に読まれたり論じられたりする中で評価され批判されて、社会レベルの修正も入ります。本を読むことは、そうした何重にもなった修正のループに、読み手が参加することなんです。

そこに直接体験にはない豊かさや楽しさが生まれます。部屋の中で一人で本を読んでいる時でさえ、我々は孤独ではない。それは読むことが、個人レベルから社会レベルにまで何重にも重なったループへの参加であるからです。

 人間はどんどん変わっていきます。年を取るし、記憶力も弱くなっていく。一方で、本は変わらない。だから生きている限りは、また手に取ることがあるかもしれない。何度でも出会い直すことができるんです。ある時は難しくて歯が立たなかった本でも、何年か経ったら読めるようになることがあります。それは別にトレーニングを積んだり、勉強をしたりしたからじゃなくて、ただ単に時間が経過したというだけで理解できることがあるんです。

年を取ったからこそ身にしみてぐっとくる箇所があったり、深いところで感じ入ることができたりする。人間のほうは読むことを諦めることがあるかもしれないけれど、書物は人を見捨てない。じっと私たちを待ってくれるんです。

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