運命として与えられた生まれ育ちから自身を解放すること

独学は学習の最後の砦、セーフティネットのようなものだと思っています。どれだけ学ぶための機会や資源が限られていても、たとえ奪われても、最後に独学という希望が残っている。独学があるから「あなたがあきらめないかぎり、知はあなたを見放さない」と言い切れる。

たとえば、学校に行きたかったけれど行けなかった、知りたいことがある、身につけたいことがあるんだけど、学ぶための時間がない、習うためのお金がない、教えてくれる人がいない。そういう場合にも、最後に独学が残ってるんです。

 もうひとつ言うなら、研究者がある分野を極めようと研究の山をどんどん登っていくと、空気の薄い知識の「高地」にたどり着く。もう自分の先にも周囲にも誰もいない。そこでは誰もが自らを師として独学せざるをえない。

 つまり学習機会を奪われた人も、知の最先端に立つ研究者も、どちらも「独学者」なんです。そうした意味では独学は、知識に向かおうとする限り、どんな環境に置かれても、どんな段階・水準にあっても、行うことになる、知的営為のミニマムセットなんじゃないかな、と思っています。

 事実として、遺伝子や生育環境は、その人の考え方や行動、能力などを通じて、その後の人生にとても大きな影響を与えます。「子どもは親を選べない」「親ガチャ」という言葉もありますよね。そしてまた、その場の環境に左右されてしまうのは生き物としてのヒトにとって、逃れられない事実としてある。

教養とは「運命として与えられた生まれ育ちから自身を解放すること」

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