ヨーロッパを震撼させたリスボン大地震
1755年11月1日、ポルトガルの首都・リスボンを強烈な揺れが襲いました。ポルトガル沖のプレート境界で起きた超巨大地震で、ヨーロッパ中が揺れました。大航海時代の富が集中したリスボンの建造物のほとんどが破壊され、さらに大津波が襲いました。津波はポルトガルだけでなく、大西洋岸の各国を襲いました。リスボンの町は、強震、津波の後、火災が発生し、火災旋風で焼き尽くされてしまいました。6~9 万人に及ぶと言われる犠牲者に加え、大量の書物や大航海時代の記録、世界から集められた貴重な美術品も失われました。
この地震後、宰相だったボンバル侯爵を中心に、国を挙げて復興に取り組みました。リスボンのまちは、大きな広場と広い街路を持った防災都市として再建されました。建物の建築にあたっては、耐震と耐火に気配りし、コストカットと工期短縮のため標準化とプレハブ化が行われました。後世から見ても、都市計画や耐震建築の端緒となる復興だと思います。さらに、ボンバルは、遅れていた近代化を進めるため、復興を旗印に、大きな力を持っていたイエズス会を追放するなど、政治、社会、教育などの改革も進めました。しかし、近代化への遅れや、ブラジルの独立運動、ナポレオンの侵入などによって、ポルトガルは徐々に力を失いました。
リスボン地震がヨーロッパ社会に与えた精神的ダメージは大きく、ヴォルテール、ルソー、カントなど、当時の啓蒙思想に大きな影響を与え、フランス革命にも繋がっていきました。カントは地震後、「地震原因論」、「地震の歴史と博物誌」、「地震再考」の3つの著作を著し、神の仕業と考えられていた地震について、科学的な視点から論じました。また、ボンバルは、国内の全40教区と自国の島々に質問状を送り、地震の揺れ方、余震、津波、被害状況など、地震現象と被害に関する調査を行いました。まさに、カントとボンバルは、近代地震学・地震防災の先駆者と言えそうです。
------
1755年リスボンでは地震のあとに起きた津波と火災により、ほとんどの建物が廃墟と化した。震災によりポルトガル経済は打撃を受け、海外植民地への依存度を増した。ポルトガルでは国内の政治的緊張が高まるとともに、それまでの海外植民地拡大の勢いは削がれることとなった。
また、震災の悲報は、18世紀半ばの啓蒙時代にあった西ヨーロッパに思想的な影響を与え、啓蒙思想における理神論と崇高論の展開を強く促した。リスボン地震によって思想的に大きな変化を蒙った思想家には、後述のようにヴォルテールがいる(『カンディード』を参照)。
11月1日はカトリックの祭日(諸聖人の日(万聖節))であった。リスボンの中心部には5m幅の地割れができ、多くの建物(85%とも言われる)が崩れ落ちた。地震から約40分後、逆に津波(押し波)が押し寄せ、海水の水位はどんどん上がって港や市街地を飲み込み、テージョ川を遡った。15mの津波はさらに2回市街地に押し寄せ、避難していた約1万人の市民を飲み込んだ。津波に飲まれなかった市街地では火の手が上がり、火災旋風となって、その後5日間にわたってリスボンを焼き尽くした。
リスボンの建物の85%は破壊され、宮殿や図書館、16世紀の独特のマヌエル様式の建築も失われた。地震の揺れで壊れなかった建物や被害が少なかった建物も、教会の蝋燭などが火元の火災で焼失した。わずか6か月前にこけら落としを祝ったばかりの歌劇場も火災で焼け落ちた。テージョ川沿いに建っていたリベイラ宮殿(現在のコメルシオ広場の位置にあった)も地震と津波で崩れ、7万巻の書物やティツィアーノ、ルーベンス、コレッジョらの絵画も失われた。ヴァスコ・ダ・ガマら大航海時代初期の航海者たちが残した詳細な記録も、王立文書館の建物とともに失われた。作曲家カルロス・セイシャスの作品の楽譜も、そのほとんどが失われた。リスボン大聖堂、サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院などの大きな教会や修道院も破壊された。ロシオ広場には当時最大の公立病院だったレアル・デ・トードス・オス・サントス病院があったが、数百人の患者もろとも火災にのまれた。ポルトガルの独立の英雄ヌーノ・アルバレス・ペレイラ(英語版)の墓所も破壊された。カルモ修道院は今も廃墟のまま地震の爪痕を残している。
国王一家は、運の強いことに震災においてけがひとつしなかった。地震のあと、ジョゼ1世は壁に囲まれた空間に対する恐怖症となり、破壊された宮殿には戻らず、宮廷を郊外のアジュダの丘に立てた大きなテント群に移した。ジョゼ1世の閉所恐怖症は死ぬまで治らなかった。
震災からまもなく、宰相と王は建築家や技師を雇い、1年以内にリスボンから廃墟は消え、いたるところが建築現場になった。王は新しいリスボンを、完璧に秩序だった街にすることにこだわった。大きな広場と直線状の広い街路が新しいリスボンのモットーとなった。今では「麗しのリスボン」といわれる。当時、こんな広い通りが本当に必要なのかと宰相に尋ねた者もいたが、宰相は「いずれこれでも狭くなる」と答えた(現在のリスボンの交通混雑は、彼の先見性を示している)。
当時、宰相の指揮下で建てられたポンバル様式建築は、ヨーロッパ初の耐震建築でもある。まず小さな木製模型が作られ、その周りを兵士が行進して人工的な揺れを起こし、耐震性が確かめられた。こうしてリスボンの新しいダウンタウン、通称「バイシャ・ポンバリーナ」(ポンバルの下町)が作られ、新興階級であるブルジョアジーが都市中心部に進出していった。
この震災をきっかけに「失われた250年」の長期衰退の道が始まることになった。
------
地震が与えた衝撃はヨーロッパの精神にもおよんだ。当時の通俗的な理解では、地震とは自然現象というより神罰である。しかし、多くの教会を援助し、海外植民地にキリスト教を宣教してきた敬虔なカトリック国家ポルトガルの首都リスボンが、なぜ神罰を受けねばならなかったのか、なぜ祭日に地震の直撃を受けて多くの聖堂もろとも町が破壊され、善人も悪人も罪のない子供たちも等しく死ななければならなかったのかについては、18世紀の神学・哲学では説明の難しいものであった。
地震はヨーロッパの啓蒙思想家たちに強い影響を与えた。当時の哲学者の多くがリスボン地震に言及しているが、ヴォルテールの『カンディード』や『リスボンの災害についての詩』(Poème sur le désastre de Lisbonne)は特に有名である。『カンディード』は、《慈悲深い神が監督する我々の「最善の可能世界」(le meilleur des mondes possibles)では、「すべての出来事は最善」である》という楽天主義を痛烈に攻撃し、『リスボンの災害についての詩』でも「すべては善である」というライプニッツ派の観念や、リスボンには天罰が下ったという意見に対して激しく反論する。
ジャン=ジャック・ルソーもこの地震による被害から衝撃を受けた一人であり、被害の深刻さはあまりにも多くの人々が都市の小さな一角に住んでいることから起こったものだとした。ルソーはこの地震は神罰ではなく文明のおごりが起こした人災と考え、都市に反対し、より素朴で自然な生活様式を求める議論に引用した。また神の善意を疑問視するヴォルテールの論に対して神の摂理を弁護し、この地震は被害に遭った人たちにとっては不幸でも、神にとっては全体の幸福のためのなんらかの目的があったと考えるべきであり、「すべては善」ではなくても、「全体にとっては善」とは言えると反論している。
-----
リスボン地震が、2011年3月に起こった東日本大震災の後、にわかにクローズアップ
されて新聞や雑誌を賑わした。それは、発生した時代と場所こそ違え、地震の規模や被害
の様相、また発生時の社会的背景等が極めて類似しているからであった。
まず、地震の規模、震災のタイプと被害の類似性である。リスボン地震の規模は、M8.5
~9.0で東日本の9.0と同規模で、ともに海溝型地震である。そして双方とも広域複合災害
であった。即ち、リスボン地震は、地震と火災と津波という三つの複合災害であり、一方、
東日本大震災は地震と津波と原子力事故によるトリプル広域災害である。
類似性は社会、経済的環境にもある。両国ともに国の繁栄は海外との通商貿易に支えら
れているという共通点がある。地震発生当時のポルトガルがアジアからインド、アフリカ、
南アメリカまで世界の海で覇権を競った絶頂期からは下降傾向にさしかかっていたとはい
え、リスボンはそのポルトガルの繁栄を支えるヨーロッパ有数の繁栄を誇る首都であった。
東日本大震災は、貿易立国日本の首都東京を直撃したものではないが、原子力事故やサプ
ライチェーンの被害による影響は、“失われた20年”といわれデフレに悩む閉塞状況に深刻
な打撃を与えた背景も似通っている。
さらにいえば、ともに時代の転換点での震災であって、それだけに政治的リーダーの質
が問われた震災であった。リスボン地震は近代への扉を開けようとする、まさにその時に
発生し、その後の“世界を変えた地震”といわれている。同じように、東日本大震災もそ
の前の阪神・淡路大震災の発生時もそうであったが、成長の時代から成熟社会への移行期
で、都市文明への警鐘を鳴らした地震であった。
しかし、これらの類似点にも増して関心の焦点は、リスボン地震を機にポルトガルの国
運がその後、上昇することはなく、長期にかけて後続のスペイン、オランダ、イギリスと
いった国々に盟主の座を順に譲っていったという歴史であった。こうしたことから、仮に
も日本が東日本大震災の復興への道筋を踏み外すようなことがあれば、世界で2~3位の
経済力を誇る大国の未来も危うくなるのではないか、という懸念がある。
加えて、首都直下と南海トラフ巨大地震が、30年以内に70%前後の確率で発生が予想さ
れ、それに伴う被害が阪神・淡路大震災や東日本大震災をはるかに上回る想定が公表され
るに及んで、こうした懸念は不安となって高まった。これら二つの巨大災害に対する備え
を怠り、あるいは対処を誤ることになればポルトガルの歴史の二の舞を演じかねないし、
それによって国運をも衰頽させる結果に繋がるという警告例とされたわけである。
------
イギリスではじまった産業革命とアメリカの独立戦争
18世紀の後半には、イギリスを中心に産業革命が進みました。イギリスでは、政治・社会・経済的な環境が整っていたこと、原料を供給し製品を購入してくれる植民地があったこと、農業革命によって農業生産が増し農村の労働力を活用できたことなどから、いち早く産業革命が進みました。飛び杼(ひ)の発明をきっかけに、最初に紡績や機織りが機械化され、その後、蒸気機関を動力に使うことで生産力が大きく向上し、工業社会へと変貌していきました。製鉄技術の改良、ワットによる新方式の蒸気機関の開発、運河の建設、旋盤の発明、ガラス、製紙、印刷、セメント、ガス灯など、様々な技術が開発されました。さらに蒸気船や蒸気機関車によって、大量の物資の速やかに輸送することも容易になりました。
一方、イギリスの植民地だったアメリカでは、1773年にはボストン茶会事件が起き、1775年には独立戦争が始まります。そして、1776年に独立宣言が発表されました。
ラキ火山噴火による凶作と飢饉がヨーロッパ社会を大きく変えた
1783年6月8日、アイスランドのラキ火山が大噴火しました。ラキ火山に続いてグリムスヴォトン火山も噴火しました。これらの噴火では、火山噴出物に加え、大量のフッ素水素ガスと二酸化硫黄ガスが噴出し、アイスランドなどで、ガス中毒で多くの人や家畜が死亡しました。さらに、大量の噴出物によって北半球では、猛暑、寒冷化、干ばつ、洪水、嵐などの異常気象が5年にわたって続き、農作物が不作となって、貧困と飢饉が拡大しました。また、同じ年の8月5日には、日本でも浅間山の天明大噴火がありました。
ちなみに、この年の9月3日には、パリ条約によって、イギリスがアメリカ合衆国の独立を承認しています。また、フランスでは、1785年から数年にわたって凶作となり、食糧不足によって飢饉や貧困が拡大しました。一方、ルソーやヴォルテールの思想も社会変革を求めていました。このことが1789年のフランス革命の原因になりました。
フランスでは、その後、1792年フランス革命戦争、1793年ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑、ロベスピエールによる恐怖政治、1794年ロベスピエールの処刑、1799年ナポレオンのクーデターなど、混乱が続きました。ナポレオンは1796年のイタリア遠征、1798年のエジプト遠征以降、ヨーロッパ各国と戦火を交え勝ち続けます。しかし、1812年ロシア戦役でロシアの焦土戦術によって敗れ、1814年にエルバ島に追放されました。1815年には、エルバ島を脱出して再起を図りますが再び敗れ、セントヘレナ島に流されます。実は、ロシア戦役では、焦土戦術に加え、シラミによる発疹チフスで戦死者の倍くらいの人が亡くなったことも敗因と思われます。戦時下の野営はまさに感染の巣とも言えそうです。
------
日本でも噴火、飢饉、大火、津波、地震など災禍が続く
18世紀後半は、日本でも様々な災禍が起きました。1754~1757年には、宝暦の飢饉が起き、宮城と岩手で5~6万人が餓死しました。1760年には江戸で宝暦の大火が起きています。地震も、1763年1月29日宝暦八戸沖地震、1766年3月8日津軽地震と起き、東北地方で災害が続きます。津軽地震では豪雪による屋根の重さが住家倒壊を招いたようです。
1771年4月24日には、八重山地震が起き、30mを超える津波によって1万人以上の人が犠牲になりました。八重山諸島の人口の1/3に相当します。明和の大津波ともよばれた津波で、宮古島や石垣島には打ち上げられた津波石が多数残されています。
田沼意次が老中となった1772年には、4月1日に江戸の三大大火の一つ「明和の大火」が起きました。目黒行人坂の大火ともよばれ、江戸の1/3が焼失し、1万人以上が犠牲になりました。さらに、1806年4月22日にも三大大火の「文化の大火」が起きました。丙寅の大火ともよばれ、芝・高輪から出火し、死者は1200人と言われています。
火山噴火も続けて起きました。1779年11月8日には、桜島で安永噴火と呼ばれる大噴火がありました。海底噴火も伴い、長崎や江戸でも降灰があったようです。
1783年8月5日には浅間山が大噴火します。天明噴火です。群馬県の鎌原村を中心に甚大な被害となりました。河道閉塞した吾妻川の天然ダムが決壊し、泥流が利根川や江戸川にも流れ下りました。このときの溶岩が作ったのが鬼押出しの奇景です。この年には、ラキ火山やグリムスヴォトン火山の噴火もあり、数年にわたって冷害がおきました。1786年には関東大洪水も起きて、凶作が続きます。飢餓に加え疫病も起きたようです。これが近世最悪の飢饉の天明の飢饉です。全国で人口が100万人くらい減ったのではと言われています。このため、松平定信が寛政の改革を始めました。祖父の吉宗を範とした倹約を旨としたもので、日本はより一層孤立を深くしたとも言えそうです。
1792年5月21日には、島原大変肥後迷惑とよばれる火山性の大津波が起きました。雲仙岳普賢岳の噴火に伴う火山性の地震によって眉山が山体崩壊しました。この土砂が有明海に流れ落ち、これによって発生した津波が島原や対岸の肥後を襲いました。その結果、15000人もの人が犠牲になりました。
地震も多数起きています。1782年8月23日天明小田原地震、1793年2月17日寛政宮城県沖地震、1799年6月29日金沢地震、1804年7月10日象潟地震などです。象潟地震は津波を伴い、象潟を中心に出羽国の沿岸が隆起しました。このため、芭蕉が「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んだ風光明媚な象潟湖が陸化してしまいました。
------
18世紀後半は、アジアでは、オスマントルコが衰退し、イランやエジプト、アラビア半島などが分離していきます。インドも弱体化し、日本や中国は海外との交易を制限していました。一方、アメリカの独立によって、イギリスはインド支配を強め、フランスはベトナムに注力し、北からはロシアの圧力が増えてきます。このように、18世紀後半は、ヨーロッパで、災禍と共に近代化を先駆ける様々な出来事が起き、ヨーロッパとアジアの地位が逆転した時代のように感じます。