人間の本能には欠如があると昔から言われている。
牛も馬も犬も悩まないで行動しているところを、人間はいちいち悩むのかもしれないと言われている。
人間の本能が壊れていると言っても、人によって、また文脈によって、
意味合いは違うだろうけれども、
ここで私は、人間の脳には宗教的経典が欠けているのではないかと思う。
漠然とした宗教心というものは誰にでもあって、
死者を悼むとか、来世の観念とか、地獄の考えとか、八百万の神々とか、
漠然とした基本部分はすでに脳に備わっていると思う。
しかしそれをはっきり形にして、宗教という落ち着きの良いものになるためには、
文化が必要で、
その伝承文化の中から、脳の欠損部分を補充するものが提供されて、
脳は安定するのだと思う。
その補充内容としては、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、マニ教、などを代表とするが、
さらにいろいろとあるし、それぞれの内部にはいくつもの分派を抱えている。
さらに、フランス共和国憲法でもいいし、マルクス主義でもよいのだろう。
解放の神学は、マルクス主義とキリスト教を結合させたものだ。それでも良いのだ。
とにかく、何か、そういったものを補充しようと、脳は欲しているのだ。
進化論的に言えば、その部分を空白にしておいて生まれ、環境に応じて取り入れれば、適応度が上がるということになる。
旅に出たり、嫁に行ったり、あるいは戦争などで大移動が起こったときなど、
新しい環境では新しい宗教を取り入れて、なじんでいけばよい。
(なじまない人もいて、それはそれで立派だけれど、軋轢を引き起こす。)
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最近は日本で熊が人を襲うと問題になっている。
もともと北海道の道南のヒグマは獰猛で、人を襲う。
東北のツキノワグマは温厚で、人を襲わない。
そう考えられていた。
しかしこの夏から秋にかけて、ツキノワグマが人間を襲うようになって、なぜだろうかと言われている。
捕獲して調査してみると、極度の空腹であったことなどが分かっていて、空腹のゆえに仕方なく人間を襲ったのかとも言われている。
しかし一方では、ツキノワグマが何かの事情で、ヒグマの習性を見習った可能性があるのではないかとの意見もある。
いろいろな熊を集めたクマ牧場のようなものがあったが、経営に行き詰まり、飼っていた熊を野に放ってしまった。
その時、東北にヒグマも混在して生活するようになり、
そこでツキノワグマがヒグマの習性を学習し、肉食を覚え、人間を襲うようになったとも言われている。
これなどは、熊の脳にも空白部分があり、そこに文化が埋め込まれ、行動が完成するのだろう。
文化の交雑が起これば、行動にも交雑が起こる。
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このあたりのことは、カール・ポバーとジョン・C・エクルズの共著の中で展開している、第一世界(物質)、第二世界(個人心理)、第三世界(文化)の三者が共進化するというビジョンに近い。
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いずれにしても、この、脳の空白部分には、何か、宗教に類似するものを入れないと居心地が悪いのだ。
それでいうと、明治維新で日本は欧州のなかでもプロイセンを手本にしたとか言われているが、
宗教の移植には失敗している。
軍備も官僚制も食い物、洋服、髪形、結婚制度などはよくまねができた。
しかし、カトリックも、プロテスタントも、イスラムも、仏教も、儒教も、拒否して、
国家神道をできれば一神教みたいにして整えてスタートしたかったのだが整合性がとれず、
仕方なく、不完全な形での国家神道にして、天皇は萬世一系の神であるという、
先進国からみたらとても不完全なものを精神の基盤においてしまったのだ。
そのせいで、夏目漱石は「こころ」の中で悩んでしまうし、
太宰治は「人間失格」の中で悩んでしまう。
キリスト教なんかいいのかなと思ってかじってみるが、
体質に合わないようで、困ったなあと日本国民は思っていたらしいことが、
夏目とか太宰の例で示されている。
カトリックは神父が子供をどうしたとかで大問題だし、
アメリカのプロテスタントはテレビでタレントみたいなことをしているわけだし、
仏教はすでに葬式仏教だし、
どれも完全なものもないのであるが、
エコノミック・アニマルの心の中には神様はいなくて、お金だけがあるようだと思われたのも、無理もない。
実際、人類の歴史の中でも、珍しいのではないだろうか。
しっかりしたものがないので、葬式仏教、結婚キリスト教、お祓い神道と、まぜこぜで、整合性など気にしないのである。
おおらかといえばそうだが、だまされやすさにもつながっているだろう。
