臨床家の、無宗教者の祈り
臨床を続けていると、「回復」という言葉が、どこかで手垢にまみれてくる。
治ること、戻ること、うまくやれるようになること。
どれも間違いではないが、どれも少しだけ、現実からずれている。
臨床家は、回復を語る側に立ち続ける。
だが、自分はどこで回復すればいいのか。
それは長いあいだ、はっきりした問いにならなかった。
宗教をもたない。
祈る言葉も、向ける先も、特別には持っていない。
それでも、ときどき、祈りに似た姿勢だけが残る。
診察室のあと、誰もいない廊下で、
あるいは夜の机に向かいながら、
「うまくやれなかったな」と、ただ思う。
理由を整理する前に、評価を下す前に、
その感覚だけが、静かに身体に沈む。
それは反省というほど能動的ではない。
後悔とも少し違う。
ただ、引き受けきれなかったものを、
そのまま抱えている時間だ。
臨床では、説明が求められる。
因果、方針、見通し。
だが回復は、しばしば説明の外側で起きる。
言葉にならない疲労が、少しだけほどける。
自分の限界を、今日も越えなかった、と気づく。
それだけで、次の日が来る。
無宗教者の祈りとは、
何かを信じることではないのかもしれない。
救済を期待することでもない。
ただ、壊れきらずにいること。
他人の人生を扱いながら、
自分の人生を使い切らないで済ませること。
臨床家の回復は、
「役に立つ」ことから一歩引いた場所にある。
成果でも、達成でもない。
今日も診察室に戻れる、という事実だけが残る。
祈りは叶わなくてもいい。
そもそも、誰に向けているわけでもない。
それでも、
沈黙のなかで一日を閉じ、
翌朝、また同じ場所に立つ。
その反復のなかで、
少しずつ、削られ、軽くなり、
臨床家は、かろうじて臨床家であり続ける。
回復とは、
何かを得ることではなく、
失われすぎないことなのだと思う。
そしてそれを、
誰にも見せず、誰にも保証されずに続ける姿勢——
それを、無宗教者の祈りと呼んでも、
罰は当たらない気がしている。
軽くなって、空白になって、魂が浄化されれば、それもよいことだと思う。
