「優しさ」がなぜ私的徳目では終わらず、政治になるのか、そして
回復モデルの“次”に、何が残るのか。
Ⅰ.なぜ「優しさ」が政治になるのか
1.優しさは本来、政治ではなかった
通常、優しさは
- 私的
- 感情的
- 道徳的
なものとされます。
政治は逆に、
- 公的
- 合理的
- 制度的
とされてきました。
つまり本来、
優しさは政治から排除されてきた
のです。
2.それでも優しさが政治になる条件
優しさが政治になるのは、
それが選択ではなく、抵抗になるときです。
現代日本では、
- 競争しろ
- 自立しろ
- 生産性を示せ
という無言の命令が、
制度と空気の両方から降りてきます。
この状況で、
- 急がせない
- 比較しない
- 役に立たなくても関係を切らない
という態度を取ることは、
支配的価値への逸脱
になります。
つまり優しさは、
体制にとって非効率な行為
として、政治性を帯びる。
3.フロイト的に言えば「超自我への不服従」
フロイト的に整理すると、
現代社会の支配は
- 罰する父
ではなく - 理想を突きつける超自我
によって行われています。
- もっと成長せよ
- もっと回復せよ
- もっと前向きであれ
ここで優しさとは、
「それを今はやらなくていい」
と語る行為です。
これは甘やかしではありません。
超自我の命令を、いったん無効化する介入
だからこそ、優しさは政治になる。
4.優しさは「怒りの代替」ではない
誤解されやすい点ですが、
- 優しさ=怒らない
- 優しさ=従順
ではありません。
むしろ、
怒りを直接ぶつけられない社会で、
別の形で構造に抗う技術
が優しさです。
- 声を荒げない
- だが従わない
- 壊さない
- だが飲み込まれない
これは静かな政治です。
Ⅱ.回復モデル以後の支援思想
ここからが本題です。
回復モデルを「捨てる」のではなく、
その限界を引き受けた先を考えます。
1.回復モデルの到達点と限界
回復モデルがもたらした最大の功績は、
- 人を「患者」だけにしなかった
- 人生を症状の外に開いた
ことです。
しかし限界も明確でした。
- 回復という語が目標化され
- 希望が義務になり
- 回復できない人が周縁化された
ここで問い直されるのは、
支援は、何を目指すべきなのか
です。
2.「良くなる」から「共にある」へ
回復モデル以後の支援は、
- 改善
- 成長
- 自立
を中心に据えません。
中心に来るのは、
関係の持続
です。
- 良くならなくても関係は続く
- 変われなくても場は残る
- 希望がなくても居場所はある
これは弱い支援ではありません。
崩壊しないための支援
です。
3.「意味づけ」を急がない支援
回復モデルはしばしば、
- その経験には意味がある
- きっと糧になる
と語ります。
しかし回復モデル以後では、
意味は後から来てもいい
あるいは、来なくてもいい
と考えます。
フロイト的に言えば、
- 解釈は暴力になりうる
臨床的に言えば、
- 意味づけはタイミングの問題
支援とは、
意味の空白に耐えること
になります。
4.「回復しない人生」を前提にした支援
回復モデル以後の最大の転換は、
回復しない人生を
例外ではなく前提にする
ことです。
- 症状が残る
- 依存が消えない
- 制限が続く
それでも、
- 人は関係を持てる
- 尊厳を保てる
- 生を続けられる
支援は、
人生を“正解”に近づけるためではなく
人生を“孤立させない”ためにある
5.支援者の役割は「導く人」ではない
回復モデル以後、支援者は
- コーチ
- ナビゲーター
- モチベーター
ではなくなります。
むしろ、
一緒に止まれる人
です。
- 行き詰まりを修正しない
- 停滞を失敗と呼ばない
- 迷いを排除しない
これは専門性の放棄ではありません。
専門性の再定義
です。
Ⅲ.結語:優しさは未来を先送りする技術である
最後に、全体を一文でまとめます。
優しさとは、
いま解決できない問題を、
壊さずに未来へ持ち越す技術である
- すぐに治らなくても
- すぐに変わらなくても
- すぐに報われなくても
それでも人が人でいられるようにする。
この社会では、
それ自体が
最も現実的で、
最も政治的な行為
です。
