回復しない社会における支援の倫理


回復しない社会における支援の倫理

――不安の金融化、超自我化する国家、そして「それでも支援する」という態度

はじめに――社会を「症例」として読む

近年の日本社会には、奇妙な静けさがある。
経済的不安が拡大し、将来の見通しは曇り、制度的負担は個人に移譲され続けているにもかかわらず、社会全体は大きな怒りや抗議へと結集しない。代わりに見られるのは、倦怠、回避、諦念、そして自己責任化された不安である。

本稿は、この状況を単なる経済現象や政治的停滞としてではなく、臨床的比喩を用いて「社会的症例」として読む試みである。
マルクス的な資本批判、フロイト的な超自我論、現代の回復モデルを横断しながら、日本社会において「支援」とは何を引き受けてきたのか、そして何を引き受け損ねているのかを考察する。


1.新自由主義的条件下の日本――慢性的危機としての現在

円安、債券安、株価の不安定化、いわゆる「トリプル安」の可能性は、日本経済が構造的な緊張状態に置かれていることを示している。
しかしこの危機は、突発的な破綻としてではなく、慢性的な低強度ストレスとして社会に浸透している。

マルクス的に言えば、これは資本の再生産条件が不安定化する過程であり、国家はその矛盾を福祉削減、医療費抑制、労働の流動化といった形で個人に転嫁している。
危機は「社会の問題」として可視化されず、各人の生活課題へと分解される。

この分解こそが、後述する「不安の金融化」と深く結びついている。


2.不安が金融化されるとき

現代日本において、不安は解消されるべきものではなく、管理・運用される対象になっている。
老後不安は保険商品へ、健康不安は民間サービスへ、将来不安は自己投資へと変換される。

ここでは、不安は集合的な政治的問いにならない。
「なぜこうなっているのか」ではなく、「どう備えるか」だけが問われる。

フロイト的に言えば、これは外的危険が内面化され、自我が恒常的な緊張状態に置かれる過程である。不安は社会的原因を失い、個人の心理的特性として再定義される。


3.超自我化する国家――禁止なき命令

日本の統治の特徴は、強い禁止よりも、柔らかな要請によって人々を動かす点にある。
「自粛」「努力」「理解」「協力」といった言葉は、命令でありながら命令に見えない。

フロイトの超自我概念を用いれば、国家は外部から罰する存在というより、内面で囁き続ける声として機能している。
「迷惑をかけてはいけない」「支援され続けるのはよくない」「早く回復すべきだ」

この内面化された規範は、抵抗を困難にする。
怒りは抑圧され、代わりに罪悪感と自己非難が蓄積される。


4.なぜ危機は怒りにならないのか

多くの社会では、危機は抗議や政治的動員へと転化する。
しかし日本では、危機は抑うつやアパシーとして現れやすい。

これは文化的特性というより、超自我化した統治と新自由主義的自己責任論の結合によるものと考えられる。
怒りは「幼稚」「迷惑」「非建設的」として退けられ、沈黙が成熟と誤認される。

結果として、社会は「静かな抑うつ状態」に陥る。


5.社会的抑うつとパニックの往復

臨床的に見れば、日本社会は抑うつ相と軽躁的パニック相を往復している。
普段は無力感と停滞が支配的だが、特定の出来事を契機に、一時的な過剰反応や集団的同調が生じる。

しかしそのエネルギーは持続せず、再び疲弊へと戻る。
これは、根本原因が処理されないまま、感情だけが動員されている状態である。


6.医療・福祉という最後の緩衝材

こうした社会において、医療と福祉は単なる支援制度ではない。
それらは、社会的矛盾が個人を直撃するのを遅らせる緩衝材として機能してきた。

医療・福祉が削減されるとき、問題は単なる財政の話ではなくなる。
社会は、緩衝装置を外した状態で、個人に直接圧をかけ始める。


7.支援する側が疲弊する理由

支援者は、制度と個人の矛盾を日常的に引き受ける。
成果を求められながら、成果が出ない現実と向き合い続ける。

その疲弊は、個人の資質や努力不足ではない。
支援が構造的矛盾を代行処理させられている結果である。


8.回復モデルの変質

回復モデルは本来、当事者の主体性と多様な回復の形を尊重する思想だった。
しかし制度化される中で、回復は「目標」「段階」「期限」を持つものへと変質した。

「回復してください」という言葉は、善意であると同時に、
「これ以上、ここに留まらないでください」という圧力にもなりうる。


9.「回復しない」という生き方の倫理

すべての人が回復するわけではない。
変わらない状態で生き続ける人もいる。

それを失敗や停滞とみなすか、一つの生の形式として承認できるかが、支援思想の分岐点である。

回復しない時間は、意味の欠如ではなく、
社会の速度に抵抗する時間でもある。


10.それでも支援するということ

最終的に残る支援は、成果でも希望でもない。
関係を切らないこと、評価しないこと、管理しないこと。

それでも支援するとは、
人を「良くなる存在」としてではなく、
今ここにいる存在として扱い続ける倫理である。


おわりに――優しさが政治になるとき

支援は政治的である。
それは政策論争の意味ではなく、
「誰を切らずに関係に留めるか」という問いにおいてである。

回復を約束しない支援。
成果を示さない支援。
それでも続けられる支援。

それは、静かだが、確かに抵抗である。


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