第1回
この国は、どんな顔で横たわっているのか
五十代の男性。
仕事は続いている。家もある。大きな病気もない。
それでも朝になると、体が重く、ニュースを見る気がしないという。
「不満があるわけじゃないんです。ただ、怒るほどの元気がなくて」
彼はそう言って、少しだけ笑った。
この言葉は、いまの日本社会をそのまま写しているように聞こえる。
破綻しているわけではない。暴動が起きているわけでもない。
それでも、どこか横たわったまま、起き上がれずにいる。
少子化、物価高、軍事費の増大、医療費の削減。
私たちはこれらを、別々のニュースとして受け取ることに慣れてしまった。
だが、臨床の視点で見れば、それらは同じ身体に現れた複数の症状にすぎない。
熱が出ているのに、咳だけを診る。
息切れしているのに、脈拍だけを測る。
社会に対して、私たちはそんな診察を続けてきたのではないか。
「自己責任」「仕方がない」「世界的な流れだ」
それらは説明としては正しくても、回復にはつながらない。
説明が増えるほど、身体の感覚は遠のいていく。
この連載では、日本社会を一人の患者として診てみたい。
犯人探しでも、処方箋の即答でもない。
ただ、「何が起きているのか」を、もう一度、感じ直すために。
怒りにならない違和感。
声にならない疲労。
それらは、弱さではなく、症状である。
第2回
止まらないエンジン――資本という装置
マルクスは、資本を「自己増殖する運動」と捉えた。
一度動き始めた資本は、止まることを知らない。
利益を生み続けるために、常に新しい燃料を探す。
その燃料は、かつては土地や労働だった。
いまは、人の時間、安心、ケア、将来への期待そのものになっている。
長時間働いても生活が楽にならない。
共働きでも不安が消えない。
それでもエンジンは回り続けている。
数字の上では、経済は「動いている」。
だが、生活の手応えは薄くなっていく。
この奇妙なずれこそが、現代日本の疲労の正体だ。
少子化は「価値観の変化」だけでは説明できない。
子どもを育てる時間と余裕が、資本の運動の中で削られてきた結果でもある。
医療費削減もまた、非効率の排除という名で、ケアを燃料に変えてきた。
資本のエンジンは、善悪を判断しない。
止まることだけを恐れる。
だから、社会が疲れても、構造は疲れない。
問題は、私たちがこのエンジンの音を「自然なもの」と思い込んできたことだ。
止められないのではなく、止めるという発想自体を失ってきた。
その結果、疲労は個人に押し戻される。
「頑張りが足りない」「工夫が必要だ」と。
社会の問題は、いつのまにか性格や能力の問題にすり替えられる。
だが、疲れているのは、あなた一人ではない。
エンジンのそばに長く立ち続けた社会全体が、消耗しているのだ。
次回は、この疲労がどのように「不安」として金融の世界に吸い上げられていくのかを見ていく。
第3回
お金は、不安のにおいを嗅ぎ分ける
お金は、感情を持たない。
だが、不思議なことに、不安のにおいだけは嗅ぎ分ける。
少しでも足元が揺らぐと、資金は一斉に動き出す。
円が売られ、債券が売られ、株も売られる。
いわゆる「トリプル安」は、偶然ではなく、集団的な反射に近い。
そこに明確な悪意があるわけではない。
ただ、「ここに長く留まるのは危険かもしれない」という感覚が、連鎖する。
日本国債は、長いあいだ「安全」の象徴だった。
だがその安全は、信仰に近い側面も持っていた。
成長しなくても、破綻はしない。
誰もが、どこかでそう思い込んできた。
問題は、その前提が静かに揺らぎ始めたことだ。
円安が進む。
物価が上がる。
金利を上げれば、国債が傷む。
上げなければ、通貨の信認が揺らぐ。
どちらを選んでも痛みが出る。
それを市場は、冷静に、しかし容赦なく見ている。
ここで重要なのは、誰も「確かな処方箋」を持っていないという事実だ。
政治も、官僚も、専門家も、時間を稼ぐことはできても、構造を変える手段を持たない。
この状態は、臨床で言えば、慢性疾患に似ている。
急変ではない。
だが、確実に体力を奪っていく。
だからこそ、不安は増幅される。
説明はあるが、安心がない。
対策は示されるが、回復のイメージが描けない。
金融市場は、未来を評価する場所だ。
そしていま、日本の未来は「分からない」という評価を受けている。
それは、破綻宣告ではない。
だが、「様子見」という名の不信でもある。
この不安は、やがて生活の感覚に滲み出る。
値札の数字。
保険料。
老後の計算。
こうして、構造的な問題は、再び個人の不安へと押し戻される。
次回は、この不安がどのように国家の内側に入り込み、
私たち自身が自分を監視し、責める力へと変わっていくのかを見ていく。
フロイトが「超自我」と呼んだ装置の話である。
第4回
国家が、心の中に住み着くとき
誰かに命じられているわけではない。
それでも、多くの人が自分を責めている。
「もっと頑張るべきだったのではないか」
「迷惑をかけてはいけない」
「文句を言うのは甘えだ」
こうした声は、外から聞こえてくるというより、
いつのまにか自分の内側で鳴り始める。
フロイトは、この内側の声を「超自我」と呼んだ。
親や社会の規範が内面化され、
命令としてではなく、良心や義務感として働く力である。
いまの日本では、国家や社会が、
この超自我の位置に入り込んでいるように見える。
法律や制度が直接罰する前に、
人々が自分で自分を罰する。
失敗は反省へ、反省は自己否定へと、静かに連なっていく。
政治への不満も、同じ回路を通る。
怒りとして外に向かう前に、
「自分が足りないのではないか」という問いにすり替えられる。
その結果、社会は静かになる。
だが、それは安定ではない。
緊張を内側に抱え込んだ、沈黙である。
この沈黙は、金融不安とも深く結びついている。
将来が不透明なとき、人は声を上げるより、身を縮める。
リスクを取らず、波風を立てず、目立たないように振る舞う。
超自我は、秩序を保つ。
同時に、エネルギーを奪う。
怒りや欲望だけでなく、想像力まで抑え込んでしまうからだ。
「仕方がない」という言葉が増えるとき、
社会は少しずつ、選択する力を失っていく。
だが忘れてはならない。
この内なる声は、生まれつきのものではない。
長い時間をかけて、環境の中で作られてきたものだ。
だからこそ、問い直すことはできる。
その声は、本当に自分のものなのか。
それとも、どこかから借りてきた命令なのか。
次回は、この内面化された不安が、
どのように「管理され」「売られる」ようになったのかを見ていく。
不安の金融化、という話である。
第5回
不安は、いつから商品になったのか
不安そのものは、昔からあった。
老いへの不安、病への不安、将来への不安。
それ自体は、人が生きていくうえで自然な感覚だ。
変わったのは、不安の扱われ方である。
いまの社会では、不安は測られ、分類され、値段がつく。
年金シミュレーション、医療保険、老後資金の診断。
不安は「管理可能なもの」として提示される。
管理できる不安は、商品になる。
保険料、手数料、投資信託。
安心は「購入できるもの」として差し出される。
だが、すべての不安が管理できるわけではない。
病気になるかもしれない、
仕事を失うかもしれない、
社会がどこへ向かうのか分からない。
こうした不安は、商品になりにくい。
そして、扱いにくい不安は、しばしば個人の問題へと押し戻される。
「備えが足りない」
「考えすぎだ」
「もっと前向きに」
そうして、不安は二重化する。
将来への不安に加えて、
不安を抱えている自分への不安が生まれる。
金融の世界では、不安は動力でもある。
恐れがあるからこそ、資金は動く。
逃げ場を探し、安全を買い、リスクを避ける。
円安や市場の揺れが起きるとき、
そこには常に、言語化されない感情がある。
数値の背後で、不安が集団的に共鳴している。
だが、不安が商品として循環する社会では、
不安が完全に解消されることはない。
解消されてしまえば、商売にならないからだ。
こうして社会は、
ほどよく不安な状態に保たれる。
落ち着かないが、声を上げるほどではない。
臨床的に言えば、これは慢性的な不安状態に近い。
緊急性は低いが、回復もしない。
次回は、この慢性的な不安が、
社会全体をどのように「抑うつ的」にしていくのかを考える。
怒りにならない危機の話である。
第6回
社会が、抑うつになるとき
抑うつとは、ただ気分が落ち込むことではない。
臨床の現場では、意欲が湧かず、選択する力が弱まり、
未来を思い描くこと自体が難しくなる状態を指す。
いまの日本社会には、よく似た兆候がある。
大きな事件が起きても、
驚きはすぐに日常へと吸収される。
怒りは長く続かず、無力感だけが残る。
「どうせ変わらない」
「自分にできることはない」
こうした言葉は、単なる諦めではない。
繰り返し小さな失望を経験した結果、
期待する力そのものが弱っている状態だ。
社会的抑うつでは、
問題が見えていないわけではない。
むしろ、見えすぎている。
経済の不安。
将来の不透明さ。
制度への不信。
それらを直視するほど、
自分には手が届かないという感覚が強まる。
そこで心は、少し距離を取る。
ニュースを見ない。
考えない。
語らない。
これは逃避ではなく、防衛である。
感じ続けるには、負荷が大きすぎるからだ。
アパシーは、社会を静かにする。
抗議も、連帯も、起こりにくくなる。
だが同時に、回復の芽も見えにくくなる。
臨床では、抑うつの人に
「もっと頑張れ」と言わない。
それが逆効果であることを知っているからだ。
だが社会には、
同じ言葉が繰り返し投げかけられる。
「前向きに」「成長を」「自己改革を」
その結果、社会はますます疲弊する。
抑うつ状態では、
怒りは感じにくい。
怒るエネルギーすら、残っていないからだ。
次回は、この抑うつが、
なぜ日本では「怒り」にならないのかを、
文化と心理の両面から考えてみたい。
第7回
なぜ、怒りにならないのか
危機が続けば、人は怒る。
多くの国では、それが政治的な抗議や運動として現れる。
だが日本では、同じような状況でも、怒りはあまり表に出てこない。
これは「大人しい国民性」だけでは説明できない。
臨床の現場では、怒りが外に出にくい人に、
ある共通点が見られる。
怒りを感じる前に、関係が壊れる不安が立ち上がるのだ。
「怒ったら、嫌われるのではないか」
「場の空気を乱すのではないか」
そうして怒りは、表現される前に抑え込まれる。
だが感情は、消えるわけではない。
向きを変えるだけだ。
日本社会では、この怒りの行き先が、
自分自身になりやすい。
「自分が未熟なのではないか」
「理解が足りないのではないか」
政治や制度への不満は、
自己反省へと変換される。
これは美徳のように見えるが、
長期的には心を消耗させる。
恥の感覚も、ここに深く関わっている。
怒りは、しばしば恥と結びつく。
怒る自分を、恥ずかしいと感じてしまう。
その結果、怒りは語られず、
ため息や無関心として表出する。
もう一つ重要なのは、
怒りが「正当化されにくい」環境である。
不満を述べれば、
「でも仕方がない」
「世界的にはもっと大変だ」
こうした言葉が、
怒りの芽を摘んでしまう。
臨床的に言えば、これは
感情の検閲が常に働いている状態に近い。
感じてよい感情と、感じてはいけない感情が、
暗黙のうちに仕分けられている。
怒りは、エネルギーを持つ感情だ。
使われなければ、内側で澱のように溜まる。
それが抑うつやアパシーと結びつくとき、
社会は動かなくなる。
次回は、こうして内向した怒りや不安が、
どこへ流れ込んでいくのかを見ていく。
医療と福祉が、どのような役割を引き受けてきたのかの話である。
第8回
医療・福祉という、最後の緩衝材
社会に歪みが生じたとき、
それはすぐに「社会問題」として現れるわけではない。
多くの場合、まず身体や心の不調として現れる。
眠れない。
食欲がない。
理由は分からないが、仕事に行けない。
こうした訴えは、医療や福祉の窓口に集まる。
失業や貧困、孤立や不安は、
診断名や支援区分へと翻訳される。
それ自体が悪いわけではない。
翻訳されなければ、援助は届かないからだ。
だが、この翻訳には副作用がある。
社会の問題が、
いつのまにか個人の問題として扱われることだ。
働き方の問題は、適応障害に。
経済的不安は、不安障害に。
孤立は、抑うつとして。
医療や福祉は、
社会が直接引き受けなかった痛みを、
静かに受け止めてきた。
その意味で、医療・福祉は
最後の緩衝材として機能してきたと言える。
衝撃を和らげ、
表面化を遅らせ、
社会が壊れきるのを防いできた。
だが緩衝材は、
衝撃を受け続ければ、すり減る。
人手不足。
予算削減。
効率化と成果主義。
現場には、「もっと少ない資源で、もっと多くを」という
矛盾した要求が積み重なる。
それでも、多くの支援者は声を荒げない。
目の前の人を放り出すわけにはいかないからだ。
この沈黙は、無関心ではない。
引き受けすぎた結果の、静けさである。
医療・福祉が機能しているかぎり、
社会の危機は「管理されている」ように見える。
だがそれは、解決されたという意味ではない。
緩衝材があるからこそ、
構造の問題は先送りされる。
次回は、この緩衝材の内側で働く人たち、
支援する側が、なぜ疲弊し、沈黙していくのかを考える。
専門職の静かな消耗の話である。
第9回
支援する側が、疲れていく
支援の現場には、声を上げにくい空気がある。
それは無関心や冷淡さからではない。
むしろ逆だ。
引き受けすぎた結果として、沈黙が生まれる。
医療者や福祉職、教育や相談の現場にいる人々は、
日々、社会の矛盾が凝縮された形で持ち込まれる場所に立っている。
制度の隙間、家族の限界、経済的不安。
それらが、一人の人の苦しみとして現れる。
支援者は、そこで選択を迫られる。
制度の枠内で対応するか、
枠を越えて関わるか。
多くの場合、どちらを選んでも、
完全な解決はない。
残るのは、「これでよかったのだろうか」という感覚だ。
支援の専門職は、中立であることを求められる。
感情的にならず、政治的にもならず、
個人の問題として丁寧に扱うこと。
その姿勢は、確かに重要だ。
だが同時に、
構造への疑問や怒りを、表に出しにくくもする。
「それは制度の問題です」
そう言いたくても、
目の前の人には何の助けにもならない。
こうして支援者は、
社会への問いを、自分の内側にしまい込む。
疲労は、少しずつ蓄積する。
身体の疲れだけではない。
倫理的な疲れ、感情の摩耗である。
それでも支援者は、簡単には辞めない。
責任感や使命感、
そして「見捨てられない」という感覚があるからだ。
この「見捨てられなさ」は、
美徳であると同時に、
搾取されやすさでもある。
制度は、しばしばそれを前提に設計される。
多少無理があっても、
現場が何とかしてくれるだろう、という前提で。
その結果、専門性は制度に回収される。
疑問は「個人的な意見」とされ、
沈黙は「同意」と誤解される。
だが、沈黙は同意ではない。
それは、使い果たされた声の形である。
次回は、こうした疲弊の中で、
なお支援の理念として掲げられる「回復」という言葉を見直す。
優しさが、いつのまにか命令になる瞬間の話である。
第10回
「回復してください」という優しさ
「早く元気になってください」
この言葉は、たいてい善意から発せられる。
支援の現場でも、日常生活でも、よく使われる表現だ。
回復は、望ましいものとされている。
苦しみが減り、生活が安定し、
再び社会に参加できること。
その方向性自体を否定する人はいない。
だが問題は、
回復が「目標」から「義務」へと変わる瞬間にある。
制度の中では、
回復は測定される。
就労したか、通院頻度は減ったか、
支援が不要になったか。
数値や段階で示される回復は、
分かりやすく、管理しやすい。
だが同時に、
回復していない状態を「失敗」に見せてしまう。
支援を受け続ける人は、
どこかで居心地の悪さを感じ始める。
「まだですか」
「次のステップに進めませんか」
直接言われなくても、
空気として伝わってくる。
回復モデルは、本来、
本人の主体性を尊重する思想だった。
自分のペースで、
意味のある生活を取り戻していくという考え方だ。
しかしそれが制度化されると、
回復は予定表に組み込まれる。
期限と成果が求められる。
優しさは、
いつのまにか圧力になる。
支援者もまた、この圧力にさらされる。
成果を示さなければならない。
回復させなければならない。
その結果、
支援は「伴走」から「誘導」へと変わる。
「回復してください」という言葉は、
時にこう聞こえてしまう。
「これ以上、ここに留まらないでください」
だが、人には、
回復しない時間が必要なこともある。
立ち止まり、崩れ、
意味を失ったまま過ごす時間だ。
それは無駄でも、後退でもない。
生き延びるための、必要な停滞である。
次回は、
「回復しない」という生き方を、
どう倫理的に位置づけ直せるのかを考える。
支援の思想を、もう一度救い直す試みだ。
第11回
「回復しない」という生き方の倫理
その人は、もう何年も同じ調子で生きている。
よくなる気配もないが、決定的に悪くもならない。仕事は細く続け、たまに休み、また戻る。周囲から見れば「中途半端」だろう。支援者から見れば「停滞」に見えるかもしれない。
それでも、その人は言う。
「これが、今の自分なんです」
臨床の現場で、この言葉ほど扱いにくいものはない。
回復モデルが置き去りにしてきたもの
回復モデルは、精神医療に大きな転換をもたらした。
治癒なき後も人生は続く。症状があっても、人は意味を生きられる。
そのメッセージは、多くの人を救ってきた。
だが同時に、回復モデルはある沈黙を生んだ。
「回復しないまま生きる」という可能性である。
回復モデルは、本来「希望の回復」を語っていたはずだった。
しかしいつの間にか、それは「回復という方向性」そのものを前提にする思想へと変わっていった。
少しずつ、よくなること。
何かを取り戻すこと。
社会参加が増えていくこと。
そこから外れる生き方は、語られなくなった。
「停滞」は本当に否定すべきものか
臨床で「停滞」と呼ばれる状態がある。
症状は続いている。生活も大きく変わらない。
だが、破綻もしていない。
これは、本当に失敗なのだろうか。
人間の生は、常に成長曲線を描くわけではない。
自然界を見ても、多くの生命は「維持」によって生き延びている。
増えもしないが、消えもしない。
それでも、生きている。
「回復しない」という生き方は、しばしば怠慢や諦めと誤解される。
しかし実際には、それは無理な適応を拒否する選択であることが多い。
これ以上、壊れないために。
これ以上、自己を裏切らないために。
回復を拒むことは、反倫理か
支援の場では、暗黙の倫理が働く。
「よくなる方向を目指すことは善である」
「変化を志向しないことは問題である」
だが、この倫理は本当に普遍的だろうか。
回復を目指すことが、その人にとって
・過剰な自己否定を生み
・絶え間ない失敗感を与え
・生の現在を空洞化させているとしたら
そのとき「回復」は、もはや善ではない。
「回復しない」という生き方は、
社会の速度、制度の期待、支援の物語に対する
静かな不服従である。
生き延びることの倫理
精神医療は長く、「よく生きる」ことを語ってきた。
だが、現代社会において必要なのは、
「生き延びること」の倫理ではないか。
派手さもない。
達成感もない。
他人に誇れる物語もない。
それでも、今日をやり過ごし、
明日も生きている。
それは、決して低い目標ではない。
臨床家に残される仕事
「回復しない」という生き方を認めることは、
臨床家にとっても痛みを伴う。
何かを良くしてあげたい。
変化を支えたい。
希望を提示したい。
その欲望を、一度脇に置かなければならないからだ。
残る仕事は、非常に地味である。
評価しないこと。
急がせないこと。
物語を完成させないこと。
そして、こう言えるかどうかだ。
「この生き方でも、あなたはここにいていい」
回復モデルの、その先へ
回復モデルを捨てる必要はない。
だが、それを唯一の正解にしないことが重要だ。
回復する人もいる。
回復しない人もいる。
その間を揺れ続ける人もいる。
支援とは、その多様さを引き受ける営みである。
「回復しない」という生き方は、
敗北ではない。
それは、この社会で生を守るための、
ひとつの倫理的選択なのだ。
第12回(最終回)
それでも支援するということ
支援は、ときに報われない。
時間をかけても、状況は変わらない。言葉を尽くしても、沈黙が返る。制度を動かしても、生活は軽くならない。
それでも、支援は続けられる。
なぜか。
支援は「成果」のためだけにあるのか
現代の支援は、成果を求められる。
改善指標、達成目標、アウトカム。
それ自体は、必要な視点でもある。
だが、臨床の現場では、成果が測れない時間のほうが圧倒的に長い。
変化しない数年。後退と回復を繰り返す日々。
グラフにすれば、ほぼ横ばいだ。
それでも、関係だけは続いている。
この「何も起きていない時間」を、無意味と呼べるだろうか。
支援とは、可能性を管理しないこと
支援者は、ともすれば未来を先取りしてしまう。
「この人は、こうなれるはずだ」
「この程度なら、もっと回復できる」
だが、その期待は、知らぬ間に負債になる。
期待に応えられない当事者は、自分を責める。
支援者は、失望を飲み込む。
「それでも支援する」とは、
その人の可能性を管理しないという決断でもある。
良くなる可能性も、悪くなる可能性も、
どちらも握りしめない。
役に立たない時間の価値
支援の中には、「役に立っていないように見える時間」がある。
同じ話を繰り返す面接。
結論の出ない相談。
制度にも物語にも回収されない感情。
だが、その時間は、
「評価されずに存在できる場」をつくっている。
社会が、常に役立つこと、意味を持つこと、前進することを求める中で、
何者にもならなくてよい時間は、極めて希少だ。
支援は、その希少な空間を守る営みでもある。
支援者が引き受ける不完全さ
「それでも支援する」という言葉は、
実は、支援者自身に向けられている。
うまくできない。
正解がわからない。
時に、無力感しか残らない。
それでも、関係を断ち切らない。
支援者が引き受けるのは、他者の問題だけではない。
自分が万能でないことを、日々引き受けることでもある。
希望を置かない支援
希望は、ときに暴力になる。
「きっと良くなる」という言葉が、
「今は足りない」という意味を帯びるとき。
最終的に残る支援は、もっと小さい。
隣にいること。
名前を呼ぶこと。
今日も関係が切れていないこと。
それだけだ。
支援が終わらない理由
回復しない人がいる。
変わらない人がいる。
途中でいなくなる人もいる。
それでも支援が続くのは、
支援が「結果のための技術」ではなく、
関係を手放さないという倫理だからだ。
この社会で、
役に立たなくなった人、
物語から落ちた人、
進歩から取り残された人に対して、
それでも、関係を切らない。
それが、支援である。
終わりに
支援は、社会を良くするための装置ではない。
人を立ち直らせるための道具でもない。
それは、
「ここにいていい」と言い続ける、
非常に地味で、非常に頑固な営みだ。
成果がなくても。
希望が語れなくても。
回復が約束されなくても。
それでも、支援する。
それだけが、私たちに残された仕事なのかもしれない。
