ハーバーマス的観点からの症例整理


症例

「説明すればわかるはずだった人」

1.来談の経緯

症例B、30代後半、女性。
大学院卒、専門職。
抑うつ気分と不眠を主訴に来談した。

初回面接で印象的だったのは、彼女の語り口だった。

  • 論理的
  • 整理されている
  • 自分の状態を正確に説明しようとする

彼女はこう言った。

「自分でも、何が問題なのかは分かっているつもりです。
でも、うまく説明できていない気がして……」

臨床家は安心する。
「対話可能なクライエントだ」
と。


2.治療は「順調」に進んでいるように見えた

数回の面接で、

  • 症状の整理
  • ストレス要因の特定
  • 生活リズムの調整

が行われた。

説明も十分にした。

  • 病態
  • 治療方針
  • 見通し

彼女は毎回うなずき、こう答えた。

「なるほど、よく分かりました」

インフォームド・コンセントは成立している。
少なくとも形式上は。


3.しかし、症状は動かない

数か月経っても、

  • 気分は上がらない
  • 休職への踏ん切りがつかない
  • 「納得しているはずなのに」前に進めない

ある回、彼女はぽつりと言った。

「説明されるたびに、
ちゃんと理解できていない自分が
ダメな気がしてくるんです」

ここで、何かがずれていることが見えてくる。


臨床的観察

――どこで何が起きていたのか

この症例で問題だったのは、

  • 説明が不足していたこと
    ではない。

むしろ逆だ。

説明が、常に「正しさ」の形を取っていた


1.彼女は「議論」に参加していなかった

ハーバーマス的に言えば、

  • 発話はあった
  • 理由も提示された
  • 異議申し立ても可能だった

しかし実際には、

  • 彼女は反論しなかった
  • 質問もしなかった
  • 違和感を言葉にしなかった

なぜか。

反論すると、
「分からない自分」を露呈する気がしたから


2.対話が「能力テスト」になっていた

この場で起きていたのは、

  • 相互理解
    ではなく
  • 理解能力の評価

だった。

  • うなずける人=成熟
  • 迷う人=未整理
  • 沈黙=準備不足

これは誰も意図していない。
しかし構造として必然的に起きる


3.沈黙が倫理的に守られていなかった

彼女が最も苦しんでいたのは、ここだった。

「分からないと言ってはいけない気がする」
「納得していないと言うと、治療を否定するみたいで怖い」

沈黙は、

  • 選択肢ではなく
  • 失敗として感じられていた。

ハーバーマス的問題点が露呈する瞬間

この症例が示しているのは、次のことです。


問題①

「対話可能性」は常に平等ではない

ハーバーマスは、

誰もが理由を述べ、反論できる

という規範を置く。

しかし臨床では、

  • 知識差
  • 権力差
  • 依存関係
  • 「良い患者でありたい」欲求

が、反論可能性を事実上奪う


問題②

合意が「証明」になる

インフォームド・コンセントが、

  • 相互理解の試み
    から
  • 理解の証明
    に変わるとき、

合意は救済ではなくなる。

彼女はこう感じていた。

「納得している“ふり”をしないと、
ここにいられない」


問題③

沈黙が倫理の外に置かれる

ハーバーマス的枠組みでは、

  • 語られた理由
  • 反論された主張

が倫理的に中心になる。

沈黙は、

  • いずれ解消されるもの
  • 一時的な障害

として扱われがちだ。

しかし臨床では、

沈黙こそが、
最も誠実な応答であることがある


転機

――倫理が変わった瞬間

ある回、臨床家はこう言った。

「今日は、分かったかどうかは
気にしなくていいです」

「説明を聞いて、
モヤっとしたまま帰っても構いません」

「納得しなくていい、という選択肢も
ここにはあります」

彼女は、しばらく黙ってから言った。

「……それを聞いて、少し楽になりました」

ここで初めて、

  • 彼女は話し始めた
  • 理由ではなく
  • 感じ

考察

――ハーバーマスを臨床でどう補正するか

この症例が教えるのは、

ハーバーマスの理論が
間違っている、ということではない。

問題は、

  • 臨床が「理想的発話状況」ではない
    という事実だ。

臨床的補正原理

  • 発話の自由だけでなく
    沈黙の自由を守る
  • 合意を
    ゴールではなく停止点として扱う
  • 説明責任に
    説明を拒む権利を含める

これは、

  • ハーバーマスの倫理を否定せず
  • しかしそのまま使わないという態度だ。

結語

――「分からないままでいてよい」という倫理

この症例で、
本当に治療的だったのは、

  • 正しい説明
    でも
  • 納得の形成
    でもない。

「分からないままで、
ここにいてよい」
という保証

だった。

ハーバーマスは、
語る理性を信じた。

臨床は、
語れない時間を守らなければならない

その補正がなければ、
理想はいつも、
善意の圧力に変わる。

そしてそれは、
誰も悪くないまま、
人を黙らせていく。

――この症例は、その静かな証言です。


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