「自立した個人」の成立 理想の内在化


忠節の内在化と「自立した個人」の成立

――武士倫理・宗教意識・近代的主体の精神構造――

一 忠節の二つの方向 丸山眞男『忠誠と反逆』から

忠節は、一見すると単純な服従の倫理のように見える。しかしその内実は、本質的に二つの異なる方向を含んでいる。

第一は、現実の君主という外部対象に向けられる忠節である。この場合、忠節の内容は完全に対象に依存する。君主が正しければ忠節は正しく、君主が誤っていれば忠節もまた誤りに加担する。ここでは忠節は純粋に外在的な関係であり、部下の精神は対象に従属している。

第二は、現実の君主の欠陥を訂正することこそ真の忠節であるとする方向である。この場合、忠節は単なる服従ではなく、むしろ批判や諫奏として現れる。

このとき忠節の対象は、もはや現実の君主そのものではない。部下の精神の内部にある「真の君主」、すなわち君主のあるべき理想像へと向けられている。

ここにおいて、忠節の対象は外部から内部へと移動する。

忠節の内在化である。


二 忠節の内在化と人格の分裂

この内在化は、単なる心理的変化ではない。それは人格構造そのものの変容を意味する。

現実の君主と、精神内部の理想的君主が分離するとき、個人の内部には二つの権威が生じる。

  • 外部の現実の権威
  • 内部の理想的権威

このとき個人は、単なる服従者ではなくなる。

なぜなら、外部権威を内部権威によって判断する立場に立つからである。

この瞬間、個人ははじめて判断主体となる。

ここに「自立した個人」の萌芽がある。


三 諫奏と反逆の精神構造

江戸時代の武士において、「諫奏」は忠節の最も純粋な形態であった。

諫奏は服従ではない。それは理想の君主に対する忠節に基づいて、現実の君主に異議を申し立てる行為である。

ここでは次の逆説が成立する。

忠節が深いほど、反逆の可能性もまた深くなる。

なぜなら、忠節の対象は現実の君主ではなく、内部の理想的君主だからである。

この構造を持つとき、個人は単なる命令の受動的実行者ではない。彼は理想を基準として現実を評価する主体となる。

ここに倫理的主体が成立する。


四 夏目漱石の「自己本位」との連関

夏目漱石の言う「自己本位」とは、この内在化された権威に基づいて生きることである。

それは利己主義ではない。

それは、自らの内部にある判断基準に従って生きることである。

この内部基準とは、まさに内在化された理想的権威である。

外部の評価や命令ではなく、内部の理想との関係において自己を規定すること。

これが近代的主体の核心である。


五 宗教意識との構造的同一性

この構造は、キリスト教における神との関係と本質的に同一である。

キリスト教において神は外部に存在するが、信仰は精神の内部において成立する。

信仰者は外部の神に従うのではない。内部において神と対話する。

神は精神の内部における絶対的基準となる。

同様に、武士における理想の君主もまた精神内部の基準である。

両者に共通するのは、

絶対的権威の内在化

である。


六 理想的超越者の心理学的基盤

人間は本来、群生動物として進化してきた。

群れにおいてはリーダーへの服従が生存を保証する。

このため、人間の精神には

「忠節を向ける対象」を求める構造

が存在する。

しかし人間は単なる群生動物にとどまらない。

現実のリーダーが理想に達しない場合、精神は理想的リーダーを構成する。

この理想的リーダーは精神内部に存在する。

こうして忠節は内在化される。

宗教も武士道も、この精神構造の文化的表現である。


七 内在化された権威と近代的主体

重要なのは、この内在化によって個人が完全に自由になるわけではないことである。

むしろ逆である。

個人は内部の理想的権威に対して責任を負う。

外部権威への服従は放棄できても、内部権威からは逃れられない。

ここに近代的主体の本質がある。

それは単なる自由ではない。

内在化された絶対への責任である。


八 理想の不在と精神の不安定

もし内部に理想的権威が存在しなければ、個人は判断基準を失う。

そのとき個人は

  • 外部権威に盲従するか
  • 完全な相対主義に陥るか

のいずれかとなる。

精神の安定には、内在化された絶対が必要である。

それは神であってもよい。

理想的君主であってもよい。

あるいは真理、正義、人格的理想であってもよい。

重要なのは、その位置が精神の内部に存在することである。


九 結論――忠節の内在化としての近代的個人

近代的個人とは、忠節から解放された存在ではない。

むしろ忠節を内在化した存在である。

外部の君主への服従から、

内部の理想への忠節へ。

この転換によって、個人は自立する。

それは服従の消滅ではない。

服従の対象の内在化である。

ここにおいて、人間ははじめて真の意味で主体となるのである。


スケッチ

忠節の対象が、現実の、欠陥のある君主に向けられ、欠陥を維持する忠節と、
その現実の君主の欠陥を訂正することが真の忠節だと信じる場合がある。

前者の場合、忠節は外部対象に向けられ、忠節の内容も、君主次第のものになる。
後者の場合、忠節の対象は、部下の心の中にある「真の君主」に向けられる。それは部下の心の内部のものであり、現実の外部存在としての君主によらない。

ここで、忠節対象は内在化している。

この時点で個人は「自立した個人」となる。漱石の「自己本位」にもつながる。

キリスト教で言う、神と正対し、精神内で神と対話するとき、
江戸時代の武士が「心の中にある、仕えるべき真の君主」と対話するとき、
似たような配置となる。

この、神や「真の君主」の位置に、何が入るかは、それぞれの時と場所による。何でもよい。
人間の脳の中には、そうした、「忠節を尽くすべき理想の超越者」の場所がある。
それは群生動物として、リーダーに従う行動を促す脳の装置である。
その延長として、現実のリーダーではなく、理想のリーダーを構想するようになり、その精神に内在する存在に帰依して忠節を使うとき、キリスト教も、武士の倫理も成立した。

その場所に、何も入っていないことは人を不安定にする。

「自立した個人」の場合には、他者とは平等対等な関係であり、上下関係や忠節を尽くす関係ではなくなるはずである。
しかし人間の脳の中には、群生行動で生き延びてきた行動パターンをつかさどる部分が厳然として存在し、この人はリーダーとして素晴らしいと感じた人間に、進んで服従することが自然でもある。

忠が存在するためには、真に尊敬に値し、命をささげるに値する主君が必要である。忠が存在を要請される一方で、真に尊敬される君主も要請されている。
それが「論語」の構造である。

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