なぜ日本人の自我の確立は未完の課題であり続けているのか。その核心には、「内なる超越者との対話」の欠如があると考えられます。
未完の自我――なぜ日本人に「内なる超越者」は不在なのか
序:輸入された近代と、置き去りにされた主体
日本の近代化は、制度や技術という「形」においては驚異的な速さで達成された。しかし、その器を動かすべき「近代的主体(自我)」の確立という点においては、今なお多くの課題を残している。夏目漱石がかつて喝破したように、日本の開化は「外的」なものであり、内発的な必然性を欠いていた。この「外発的な近代」という宿命が、日本人の精神構造に「自我の空洞化」をもたらしている。
真の自我とは、単なる「個人の意識」ではない。それは、外部の社会や権威から独立した、自己の内なる「絶対的な参照点」を持つことである。「超越者の内在化」という観点から見れば、日本人の自我が確立されにくい理由は、依存の対象を「外」から「内」へと移し替えることに失敗し、依然として「横の関係(世間)」の中に自己を埋没させている点に求められる。
第一章:丸山眞男が捉えた「忠誠」の挫折
丸山眞男は、日本の近代における自我の未成熟を、倫理的な「忠誠(ロイヤリティ)」のあり方から分析した。丸山によれば、真の忠誠とは、現実の対象(特定の個人や組織)に盲従することではなく、その背後にある理想(超越的な価値)に対して能動的に関わることである。
しかし、日本における忠誠は、しばしば「具体的な人間関係」の中に解消されてしまった。「諫奏(かんそう)」、すなわち主君を正そうとする能動性は、精神内部に「理想的主君」という超越的基準を持って初めて成立する。だが、多くの日本人にとっての忠誠は、内なる基準による判断を伴わない、単なる「場の空気への同調」へと退行しやすい。
丸山が憂慮したのは、日本人が「内なる超越者」を打ち立てる代わりに、外部の「強い力」や「集団の意向」を唯一の行動原理としてしまう傾向である。このとき、個人は「主体」ではなく、単なる「部品」となる。この構造が、戦前から現代に至るまで、日本人の自我確立を阻む壁となっている。
第二章:夏目漱石の「自己本位」という絶望と希望
夏目漱石は、この自我の危機を最も鋭敏に察知した文学者であった。彼が提唱した「自己本位」とは、他人の顔色を窺うのではなく、自分の内側に価値の基準を置くという、凄絶な決意の表明である。
漱石が直面した困難は、当時の日本(そして現代も)が「他人の後をついて歩く」ことを美徳とし、内なる基準を持つ者を「変人」あるいは「利己主義者」として排除する風土を持っていたことにある。資料が指摘するように、漱石にとっての自己本位とは、単なる個人主義ではなく、内なる理想への「忠節」であった。
しかし、多くの日本人にとって、この「内なる権威」を確立することは、あまりに孤独で耐え難い苦痛を伴う。なぜなら、日本の社会には「個の自立」を支える精神的基盤としての超越的な宗教心や、絶対的な「義」という観念が希薄だからである。漱石が晩年に「則天去私」を求めたのは、孤立した自我が耐えうる限界を突破するために、再び「超越的なもの(天)」との合一を図る必要があったからとも解釈できる。
第三章:キリスト教と日本の「絶対的他者」の欠落
キリスト教の思想的営為は、この日本的な「自我の弱さ」を克服するために、キリスト教的あるいは超越的な「絶対的他者」との対決を求めた。
西洋的な自我の確立は、神という「絶対的な外部の他者」を内面化し、それとの対話(祈りや反省)を通じて形成される。この「内なる他者」こそが、外部の社会(世間)がどれほど理不尽であっても、個人が正気を保ち、主体的に行動することを可能にする「背骨」となる。
翻って日本人の場合、内面化されるのは「超越者」ではなく、しばしば「世間の目」である。フロイト的表現を借りれば、日本人の「超自我」は、超越的な道徳原理ではなく、具体的な他者からの「恥」の感覚によって構成されている。キリスト教が説くような、神の前に独りで立つ「単独者」としての覚悟が持てない限り、日本人の自我は常に「周囲とのバランス」という流動的な状況に依存せざるを得ないのである。
第四章:『論語』が示す「忠」の誤読
日本人は古くから『論語』に親しんできたが、そこにある「忠」の概念を、しばしば「目上の者への一方的な隷属」として誤読してきた。本来の「忠」とは「自己の誠実に生きること(内なる義への忠実)」である。
孔子が説いたのは、外的な規範(礼)を内面的な誠実さ(仁)によって支えること、すなわち「主体的な徳」の確立であった。しかし、日本の受容過程において、それはしばしば組織への滅私奉公へと矮小化された。この「内面的な義」の喪失こそが、現代においても、不祥事を起こす組織に対して個人が異議を唱えられない、あるいは「空気」に従ってしまうという形で、未完の自我を露呈させている。
結び:自我の確立へ向けて――内なる超越者との再会
日本人の自我の確立が未だ達成されていない理由。それは、我々が「孤独な内面」に耐えうるだけの、強固な「内なる超越者」を育ててこなかったからである。外部の権威が消滅した現代において、拠り所を失った日本人の精神は、再びSNS上の承認や過度な同調圧力という、新たな「外部」に支配されつつある。
自我の確立とは、単に「わがままに生きる」ことではない。それは、脳の社会認知ネットワークという進化的基盤すらも利用し、自己の内部に「理想的な対話相手(超越者)」を構成することである。
丸山眞男が求めた「能動的な忠誠」、漱石が命を懸けた「自己本位」、そしてキリスト教が説いた「絶対者との対面」。これらの思索が共通して指し示しているのは、我々が「世間の目」という横の糸から解き放たれ、「内なる超越者」という縦の糸を自らの精神に一本通すことの必要性である。
自分を裁き、励まし、導く「内なる超越者」との対話が、誰にも見られていない密室においても続けられるとき、初めて日本人の自我は「外的近代」を脱し、真の自律へと至るのではないだろうか。そのとき、我々は「忠節の内在化」という長く未完であった課題を、ついに成し遂げることができるのである。
