アメリカ型(西洋型)の超自我と、日本を含む東アジア型の超自我の比較は、まさに「超越者の内在化」というプロセスが、それぞれの文化圏でいかに異なるかという問題に帰結します。
精神分析、文化人類学(ベネディクトの「恥の文化」論など)、そして丸山眞男や漱石が直面した葛藤を補助線にして、その心理構造の違いを浮き彫りにします。
アメリカ型超自我 vs 東アジア型超自我:垂直の「父」と水平の「世間」
1. アメリカ型(西洋・一神教型):内面化された「絶対的父」
アメリカ型超自我の基盤には、ユダヤ・キリスト教的な一神教の論理があります。
- 心理構造:垂直・内在型
アメリカ型の超自我は、強力で人格的な「超越者(神=父)」を、個人の内面に「点」として取り込むことで形成されます。 - 作動原理:罪(Guilt)の文化
審判者は常に自分の内側にいます。たとえ誰にも見られていなくても、内面の「父」との対話(あるいは対決)において、規範に背けば「罪」を感じます。この構造は、外部の社会がどうあろうと「自分は正しい(神の前に正しい)」と主張できる、強固な自律的主体を生みます。 - 内的作業モデル:
「理想的な父(神)」との一対一の対話モデル。資料にある「神の前に単独で立つ」キェルケゴール的な主体です。
2. 東アジア型(日本・儒教圏型):関係性の中に分散する「眼」
東アジア型超自我の基盤には、儒教的な人間関係(五倫)や、仏教・アニミズム的な包摂性があります。
- 心理構造:水平・外在(分散)型
東アジア型の超自我は、特定の「点」としての超越者ではなく、自分を取り囲む人間関係の網の目、すなわち「世間」や「場」として形成されます。超自我は内面にあるというより、他者との関係性の間に「霧」のように漂っています。 - 作動原理:恥(Shame)の文化
審判者は「他者の眼」です。「誰かに見られている」「世間に顔向けできない」ことが行動の抑制原理となります。そのため、誰も見ていない状況や、誰も自分を知らない場所では、規範が急速に失効しやすいという脆弱性を持ちます。 - 内的作業モデル:
「他者からどう見られているか」を絶えずシミュレーションする鏡像的モデル。丸山眞男が指摘したように、超越的な基準(義)が人間関係の中に解消されやすい構造です。
3. 「超越者の内在化」における決定的な違い
「超越者の内在化」という課題を、この比較に当てはめると以下のようになります。
- アメリカ型: 超越者(神)を「人格的原理」として取り込む。それゆえ、権威への反抗(エディプス的対決)が明確であり、「自律した個」が生まれやすい。
- 東アジア型: 超越者を「和(関係性の調和)」として取り込む。それゆえ、個が突出することは調和の破壊と見なされ、「関係性の中の自己」に留まりやすい。
夏目漱石が「自己本位」を説かなければならなかったのは、東アジア型の「他者本位」の超自我を、アメリカ(西洋)型の「自己内面の原理」へと作り替えるという、極めて困難な移植作業を強行しようとしたからです。
4. 現代における逆転現象:超自我の「東アジア化」
興味深いことに、現代のSNS時代において、アメリカ型の超自我も変容を遂げ、かつての東アジア型に近づいています。
- アメリカの変容: かつての「内面的な神」の支配力が弱まり、SNS上の「他者の承認」を求める「他者志向型」へと移行しています。神の沈黙を埋めるために、デジタルな他者の眼を求めるという、超自我の「外部化・水平化」が起きています。
- 東アジアの現状: もともと水平型であった超自我が、SNSというテクノロジーによって増幅され、同調圧力が極限まで高まっています。
5. 丸山・漱石の格闘の意味
丸山眞男が『論語』の「諫奏」に見出した能動性や、漱石の「自己本位」は、東アジア的な「水平の超自我」の真っ只中に、いかにしてアメリカ(西洋)的な「垂直の超自我」を打ち立てるかという、ハイブリッドな主体性の模索でした。
- アメリカ型超自我の欠点: 独善的、独りよがりの正義、他者への攻撃性になりやすい。
- 東アジア型超自我の欠点: 無責任、同調圧力、主体性の喪失(空気への隷属)になりやすい。
これからの主体性とは、アメリカ型のような「孤独な独善」でも、東アジア型のような「空気への隷属」でもない、「内なる超越者(道・義)を持ちながら、他者との関係性を能動的に構築する」という、第三の道を見出すことにあると言えます。
結論
アメリカ型超自我は「内なる父」との対話によって個を確立し、東アジア型超自我は「外なる世間」との調和によって自己を定義してきました。
現代の我々に必要なのは、東アジア的な柔軟な関係性を維持しつつも、科挙知識人が持っていたような「道」という垂直の軸、あるいは漱石が求めた「天」という垂直の軸を、もう一度自己の内面(超自我)に招き入れること、すなわち「垂直性の再構築」であると言えるでしょう。
