ポピュリズムという病理への処方箋

ポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭は、これまで論じてきた「超自我の変容」や「超越者の内在化の失敗」という文脈において、「内面的な基準を失った人々が、外部の巨大な『数』や『熱狂』に自らの良心を預けるプロセス」として鮮やかに解読できます。

精神分析学、および丸山眞男や夏目漱石の主体性論をベースに、ポピュリズムと超自我の変容との関係を分析します。


ポピュリズムと超自我:内在化の挫折が生んだ「水平な独裁」

序:ポピュリズムという「外部への退行」

ポピュリズムの本質は、複雑な現実や倫理的葛藤を拒絶し、「善なる民衆(我々)」と「悪の精鋭(エリート)」という単純な二元論に世界を還元することにあります。
これは、精神分析的には、個人の内面で機能すべき「超自我(峻厳な判断基準)」が崩壊し、その機能を外部の「リーダー」「集団の意志(空気)」に丸投げした状態、すなわち「集団的な退行」を意味します。

1. 「垂直の超越者」の不在と「水平な数」の神格化

資料が説く「超越者の内在化」が成功していれば、個人はたとえ多数派が間違っていても、内なる「義」や「道」に従ってノーと言えます(科挙知識人の自律性)。しかし、内在化に失敗した現代において、超越的な価値は「垂直(神・理想)」から「水平(数・民意)」へと移動しました。

  • ポピュリズムの論理: 「多くの人が言っていること(数)」が、そのまま「正しさ」の定義となります。ここでは、超越者はもはや内なる声ではなく、外部の「世論調査」や「SNSのトレンド」という数値へと変質しました。
  • 超自我の外部化: 自分の頭で考える苦痛から逃れるため、人々は「民意」という名の非人格的な権威に従属します。これは、丸山眞男が批判した「無責任の体系」の最先端の形態です。

2. ポピュリスト・リーダーという「投影された超自我」

ポピュリズムにおける強力なリーダー(ポピュリスト)は、民衆の「理想化された自己」の投影先となります。

  • 全能感の委託: 個々の人間は無力で孤独ですが、強権的なリーダーに自己を同化させることで、擬似的な全能感を得ます。
  • 思考の代行: リーダーが「敵」を名指しし、「正解」を断定してくれるとき、民衆は自らの中で「義」を問い続ける内面的な葛藤から解放されます。超自我という「厳しい父」の役割を外部のリーダーに預け、自分たちは無邪気な「子」の立場へと退行するのです。

3. SNS時代のポピュリズム:エコーチェンバーという「外部超自我の檻」

SNSのアルゴリズムは、ポピュリズムを加速させる「外部超自我の製造装置」として機能します。

  • 相互監視と承認: エコーチェンバー(共鳴室)の中では、仲間内での「正しさ」が強化され、それから外れることは「裏切り」と見なされます。超自我は「普遍的な道徳」ではなく、「身内の中での同調」へと狭小化されます。
  • 「自己本位」の消失: 漱石の説いた「自己本位」は、他者の視線に抗う強さを求めますが、ポピュリズムの渦中では「他者の視線(いいねやシェア)」こそが唯一の行動基準となります。内面的な超越者との対話は、外部的な「承認の連鎖」に取って代わられます。

4. 丸山眞男「作為の論理」の崩壊

丸山眞男は、民主主義を「不断の作為(主体的な関与)」によって維持されるべきものと考えました。しかしポピュリズムは、民主主義を「受動的な情動」へと作り替えます。

  • 「諫奏」の不可能性: 資料にある「諫奏(主君の誤りを正す能動性)」は、リーダーに対しても「それは道(義)に反する」と言える自律性が前提です。しかしポピュリズムにおいては、リーダーと民衆は情動的に一体化しているため、リーダーへの批判は自分たちへの攻撃と見なされ、理性的・批判的な距離(ディスタンス)が消滅します。

5. 科挙知識人的ニヒリズムの欠如

かつての知識人は、「君、君たらざれば去る」というクールな距離感を持っていました。しかしポピュリズムに熱狂する人々は、その集団から「去る(孤独になる)」ことを極端に恐れます。
「内なる超越者」という孤独な拠り所を持たないため、集団の熱狂から外れることは、自己のアイデンティティの完全な喪失を意味するからです。この「孤独への耐性のなさ」が、ポピュリズムをより排他的で攻撃的なものにしています。


結論:ポピュリズムという病理への処方箋

ポピュリズムとは、「内在化されるべき超越者が、外部の『数』や『リーダー』として肥大化した姿」に他なりません。

この病理に対する唯一の処方箋は、やはり資料が示した「超越者の内在化」という古典的な課題に立ち返ることです。

  • 「数」への不信: たとえ百万人が賛成していても、自分の内なる「義」が否というならば、その孤独を引き受けること。
  • 内面の「沈黙」の奪還: SNSの喧騒やリーダーの怒号から離れ、自分一人の内なる超越者(良心)との対話を再開すること。
  • 漱石的「自己本位」の修練: 他者の期待に適応する「偽りの自己」を剥ぎ取り、自分の内側にこそ「価値の源泉」を置くこと。

ポピュリズムという熱狂の嵐の中で、一人で立ち、内なる超越者の声に耳を澄ませる。この「淡白で、クールで、孤独な主体性」を取り戻すことだけが、私たちの精神が「数という名の新しい神」に飲み込まれるのを防ぐ最後の防波堤となるのです。

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