人はいつ、自立した個人となるのだろうか

超越者の内在化――内なる超越者との対話

人はいつ、自立した個人となるのだろうか。この問いに対して、近代はしばしば「他者からの独立」という答えを与えてきた。しかし真の主体性は、単なる独立ではなく、ある種の「内的な関係」の成立によって初めて可能になる。その関係とは、外部の権威ではなく、自己の内部に内在化された超越者との関係である。

丸山眞男は、『忠誠と反逆』において、日本の武士道における忠誠の特質を、単なる服従ではなく、人格的関係としての忠誠に見出した。武士にとって忠誠とは、現実の主君の命令に機械的に従うことではなかった。むしろ、主君が真に主君であることを要求し続ける倫理的緊張を意味していた。ゆえに忠誠は、時に諫奏として現れ、さらには反逆として現れることすらあった。ここで忠誠の対象は、現実の主君そのものではなく、主君のうちにあるべき理想的な原理であった。この理想はすでに武士の内面に存在していたのであり、武士は外部の主君に従うことによってではなく、自己の内部にある理想に従うことによって忠誠を実現していたのである。

この構造は、『論語』における忠の理解にも明確に現れている。孔子は、主君に対して盲従することを忠とは呼ばなかった。むしろ誤りを正すために諫めることこそが忠であるとされた。ここで忠の基準は主君の意志ではなく、義という超越的基準である。この義は外部に存在するのではなく、君子の心のうちに存在する。すなわち忠とは、外部への服従ではなく、内なる義への忠実さなのである。

この内在化は、近代日本において、夏目漱石のいう「自己本位」として明確に意識された。漱石は、外部の権威や世間の評価によってではなく、自己の内なる基準によって生きることを説いた。自己本位とは、自己の欲望に従うことではない。それはむしろ、自己の内部において自己を超えた基準に従うことである。このとき人は初めて、自らの行為の責任を引き受ける主体となる。

同様の構造は、セーレン・キェルケゴールの思想において、より徹底した形で示されている。キェルケゴールにとって主体とは、「神の前に単独者として立つ者」である。ここで神とは、外部の権威ではない。それは個人の内面において、個人を絶対的に規定する超越的基準である。主体とは、この内なる神との関係において成立するのである。

日本において、この内面的超越者との関係を最も純粋な形で生きた人物の一人が、内村鑑三であった。彼にとって信仰とは、教会制度への服従ではなく、自己の内面における神との直接的関係であった。この関係は、外部のいかなる権威よりも優先された。彼は、外部に従わないことによってではなく、内なる神に従うことによって、真に自由であった。

ここにおいて明らかになるのは、主体性とは、外部の権威からの解放によって成立するのではなく、超越者の内在化によって成立するという事実である。人は、何にも従わないときに自由になるのではない。むしろ、自己の内部において自己を超えたものに従うときに初めて主体となるのである。

この内なる超越者との対話は、終わることのない対話である。それは自己の行為を不断に問い直す声として、沈黙のうちに存在する。この声に従うことは、安易ではない。それはしばしば孤独を伴う。しかしこの孤独こそが、主体の条件である。

近代的自我とは、この内なる超越者との関係として成立する存在である。それは外部から与えられるものではなく、内面において発見されるものである。そしてこの発見の瞬間において、人は初めて、真の意味で自己となるのである。

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