Text: “我が社でよく、 「課長にお仕えする」などという。 転職が当然の世の中で、忠誠があるから反逆もある、そ んな「ウェットな」上下関係は珍しくなった。それでも、 ふとしたところに香る、 「忠誠」という封建道徳の残り香。 その最後に残った「忠誠」の DNA の淵源を、振り返ってみ る時間もあってよい。
丸山眞男は、戦後リベラリズムを代表する知識人であり、 我々世代には、高校教科書の『 「である」ことと「する」こ と』で馴染み深い。その丸山が、封建道徳の代表選手の「忠 誠」を肯定的に論じているというと、意外だろうか。戦中 に「一億玉砕」を叫んでいた人々は、戦後すぐに「一億総 懺悔」へと転向した。丸山は、西欧市民社会における「自 立した個人」の倫理が日本社会に無いことを指摘する一方、 本作では、日本社会のこの道徳的不安定さを、日本社会に 内在した価値観――封建道徳の「忠誠」――の中から克服 する可能性を求めている。
丸山は、武士の「忠誠」には、元来、生死を共にする「主 人と従者との間の、どこまでも具体的=感覚的な人格関係」 が根源にあったと指摘する。それは独立不羈の鎌倉武士が、 棟梁の「御恩」に感じて身命を擲つという、一種の能動的 な倫理であった。江戸時代には、武士は官僚化して独立性 を失うが、それでもその根底には、この能動性があったと 丸山はいう。例えば、江戸の武士にとっては、主君の人格 への忠義と、より抽象的な原理(e.g.「御家」のため)への 忠義が食い違った場合、その二つの「忠誠」は自我の内部 で厳しい緊張関係に立つことになるが、この際に生まれる のが「諫奏」 (いさめる)という能動的な行動であった。
(主君への絶対的な忠誠は、 )スタティックに受け取 るならば、どんな暴君に対しても唯々諾々としてその 命に服するという、…卑屈な態度しか出てこない。け れども、…(主君を替えることができないという)一 定の社会的文脈の下では、無限の忠誠行動によって、 君を真の君にしてゆく不断のプロセスとしても発現す る可能性を包蔵する。ここには(中国の科挙知識人的 な) 「君、君たらざれば去る」といういわば淡白な―― その限りで無責任な――行動原則を断念するところか ら生まれる人格内部の緊張が、かえってまさに主君へ 向かっての執拗で激しい働きかけの動因となるのであ る。いわゆる絶対服従ではなくて諫奏が、こうしてそ の必然的なコロラリーをなす(p.26) 。
どこまでも主君と運命共同体であればこそ、執拗に「諫 奏」し、あるいは主君の命に対し「反逆」するという、個 人の能動性・自発性が出てくる( 「本来、忠節を存ぜざるも のは、ついに逆意これなく候」 ( 『葉隠』 ) 「我家二百年来毛利 家に食する…、たとひ当君の御意に反するとは雖、豈黙す るに忍ぶや」 (桂小五郎) ) 。絶対の忠誠ゆえの反逆という、 価値の顛倒を描き出すところに、丸山の天才がある。
一方で、丸山は、時代を追ってこの「忠誠」のダイナミ クスが徐々に官僚制に取り込まれ、組織への従順さに同化 していく様をも描いている。 「われわれの国の「近代化」は、 「封建的忠誠」とその基盤を解体させることによって、同時 にそこに含まれたかぎりの「反逆」のダイナミズムをも減 衰させ」 (p.46) 、 「 「逆焔」のエートスが消失して、スタ ティックな分限意識や恭順精神の契機だけが新たな「臣民 の道」のなかに継受されていった」 (p.105) 。明治国家は、 こうして抽象的な原理に形骸化した「忠誠」を天皇の下に 集中させていき、 「諫奏」や「反逆」の精神は、社会主義者 等の例外を除き薄れていったとされる。
丸山の議論には賛否がある。武士の「忠誠」は一種の理 念型に過ぎないし、また、近代に換骨奪胎された「忠誠」 の欺瞞を問うことは必要だろう。それでもなお、 「忠誠」と いう倫理の DNA が、現代の公務員に問いかけるものは重い。
公務員の「忠誠」は、政府の政策(ひいては「国民の声」 ) や上司の意向と、自らの信念が異なるとき、最も緊張をは らむ。組織の名分に従うのか、伯夷・叔斉よろしく「君、 君たらざれば去る」と潔く官を去るか。はたまた、この「主 君」と自分は一蓮托生と思いさだめて、 「諫奏」に全てを賭 けるか。いずれにせよ、お題目の「志」や「べき論」を超 えたところで、この「忠誠」の緊張を自分ごととして引き 受け、数百年前の武士と同じく葛藤する中に、我々の倫理 もありうるのかもしれない。
評者 国税庁査察課 木村 元気 2025 Jun. 51 FINANCE LIBRARY ライブラリー FINANCE LIBRARY
丸山 眞男 著 忠誠と反逆 ―転形期日本の精神史的位相 ちくま学芸文庫 1998 年 2 月 定価 本体 1,500 円+税 2025 Jun. 51 FINANCE LIBRARY ライブラリー FINANCE LIBRARY”
- 本稿は、丸山眞男の著書『忠誠と反逆』を手がかりに、日本社会に残る「忠誠」という封建的倫理の起源と変容を検討している。
- 丸山は、戦後日本に「自立した個人」の倫理が根付かなかった点を指摘しつつ、その克服の可能性を日本固有の価値観――封建道徳としての「忠誠」――の内部に探ろうとした。
- 鎌倉武士の忠誠は、主人と従者の具体的・人格的関係に基づく「能動的倫理」であり、「御恩」に報いるために命を懸ける主体的行為だった。
- 江戸期には武士は官僚化したが、主君個人への忠義と「御家」など抽象原理への忠義の葛藤が生じ、その緊張から「諫奏(いさめる)」という能動的行為が生まれた。
- 丸山は、絶対忠誠は静的に見れば盲従だが、主君を替えられない社会では、無限の忠誠行動を通じて主君を「真の君」にしていく動態的プロセスにもなり得ると論じる。ここに「絶対忠誠ゆえの反逆」という逆説が成立する。
- しかし近代化の過程で、この忠誠のダイナミズムは官僚制に吸収され、「反逆」の契機は減衰。明治国家は抽象化した忠誠を天皇に集中させ、「諫奏」の精神は例外的存在を除き希薄化した。
- 丸山の議論は理念型に過ぎないとの批判もあるが、それでも「忠誠」という倫理のDNAは現代にも残ると評者は指摘する。
- 現代の公務員にとっての忠誠は、政策や上司の意向と自己の信念が衝突する場面で最も緊張する。組織に従うか、職を辞すか、それとも運命共同体として「諫奏」に賭けるか――その葛藤を引き受けること自体が倫理の核心であると結ばれる。
現在、財務当局は、「真に良識ある国民」に忠誠を尽くしているとの確信があり、一見して、多数の国民にとっての、反国民的な事業を推進しているのだろう。
かつての戦国華やかなりし武士道を無限のノスタルジアを含めて回想した山本常朝の『葉隠』を見ても(中略)その強調する主君への純粋蕪雑な忠誠と「献身」が、けっして権威への消極的な恭順ではなくて、むしろ「諸人這い廻りおぢ畏れ、御尤もとばかり申す」卑屈な役人根性や「出る日の方へ」向く大勢順応主義に対して、吐き気をもよおすばかりの嫌悪感に裏うちされ、学問と教養のスタティックな享受にたえず抵抗する行動的エネルギ-を内包し、中庸でなくて「過度」、謙譲でなくて「大高慢」、- 要するに「気力も器量も入らず候。一口に申さば、御家を一人して担ひ申す志出来申す迄に候。同じ人間が誰に劣り申すべきや。惣じて修行は大高慢にてなければ役に立たず候」というような非合理的主体性とでもいうべきエ-トスに貫かれていることを看過してはならないだろう。
ここでは御家の「安泰」は既成の「和」の維持ではなくて、行動の目標となる。こうした側面はとくに集団の危機感に触発された際に奔騰する。忠誠が真摯で熱烈であるほど、かえって「分限」をそれぞれまもる形での静態的な忠誠と、緊急の非常事態に際して分をこえて「お家」のために奮闘するダイナミックな忠誠とが、生身をひきさくような相克をひとりの魂のなかにまきおこすのである。
(『忠誠と反逆』 筑摩書房 19頁 )
『葉隠』の非合理的な忠誠が逆説的に強烈な自我の能動性をはらんでいたのとちょうど裏腹の関係で、福沢はむしろ非合理的な「士魂」のエネルギ-に合理的価値の実現を託した。「本来忠節も存ぜざる者は遂に逆意これなく候」というのが『葉隠』のダイナミズムであったとするならば、逆に、謀叛もできないような「無気無力」なる人民に本当のネ-ションへの忠誠を期待できるだろうかというのが、幕末以後十余年のあわただしい人心の推移を見た福沢の心底に渦まく「問題」だったのである。
(『忠誠と反逆』 筑摩書房 44頁 )
忠節の対象が、現実の、欠陥のある君主に向けられ、欠陥を維持する忠節と、
その現実の君主の欠陥を訂正することが真の忠節だと信じる場合がある。
前者の場合、忠節は外部対象に向けられ、忠節の内容も、君主次第のものになる。
後者の場合、忠節の対象は、部下の心の中にある「真の君主」に向けられる。それは部下の心の内部のものであり、現実の外部存在としての君主によらない。
ここで、忠節対象は内在化している。
この時点で個人は「自立した個人」となる。漱石の「自己本位」にもつながる。
キリスト教で言う、神と正対し、精神内で神と対話するとき、
江戸時代の武士が「心の中にある、仕えるべき真の君主」と対話するとき、
似たような配置となる。
この、神や「真の君主」の位置に、何が入るかは、それぞれの時と場所による。何でもよい。
人間の脳の中には、そうした、「忠節を尽くすべき理想の超越者」の場所がある。
それは群生動物として、リーダーに従う行動を促す脳の装置である。
その延長として、現実のリーダーではなく、理想のリーダーを構想するようになり、その精神に内在する存在に帰依して忠節を使うとき、キリスト教も、武士の倫理も成立した。
その場所に、何も入っていないことは人を不安定にする。
「自立した個人」の場合には、他者とは平等対等な関係であり、上下関係や忠節を尽くす関係ではなくなるはずである。
しかし人間の脳の中には、群生行動で生き延びてきた行動パターンをつかさどる部分が厳然として存在し、この人はリーダーとして素晴らしいと感じた人間に、進んで服従することが自然でもある。
忠が存在するためには、真に尊敬に値し、命をささげるに値する主君が必要である。忠が存在を要請される一方で、真に尊敬される君主も要請されている。
現実には、そうした理想の君主は存在しない場合もあり、そのときは各個人が、理想の君主を内部に持ち、それを忠節の対象とした。
キリスト教の神も同様で、明示的に神のお告げを受ける人でない限りは、神は語らない存在であって、個人での内部の理想化を最初から予定されている構造になっている。そうした個人の内部の理想的な存在に向かって、自己の忠節をささげる。このようにして、「自立した個人」が成立する。
