東アジアの「内的超越者」と「政治的責任」の構造


東アジアの「内的超越者」と「政治的責任」の構造。


1 「君、君たらざれば去る」とは何か

典型的には、儒教的知識人の行動原則として語られる態度です。

意味は単純です:

君主が君主としての徳を失ったなら、私は仕えない。去る。

ここでは反乱でも革命でもない。
「去る」のである。

これは『論語』や孟子の思想に根を持ちます。

孟子は言う:

君が君でないなら、それは君ではない。

君主の正統性は血統ではなく徳にある。

つまり、

政治的正統性は道徳的条件付き

なのです。


2 科挙知識人の立場

中国の科挙制度は、国家に仕える官僚を試験で選抜しました。

科挙知識人は:

  • 皇帝に仕える
  • しかし皇帝の私有物ではない
  • 彼らは「道」に仕える

ここで重要なのは、

彼らの最上位の忠誠対象は皇帝ではなく「道」だということです。

道徳的秩序(天理)が上位であり、皇帝はその代理にすぎない。


3 なぜ「去る」なのか

日本の武士道は「諫死」「殉死」という方向へ行きがちです。

しかし中国儒教官僚は違う。

彼らはこう考える:

  • 私は天理に仕える
  • 君が天理を失った
  • ならば私は去る

それだけ。

戦わない。
破壊しない。
体制を変えようともしない。

ここに

クールでニヒル

な感じがある。


4 なぜそれが可能だったのか

これは儒教宇宙論と関係します。

中国思想では:

  • 天(超越的秩序)
  • 地(社会秩序)
  • 人(徳ある主体)

が連続しています。

君主は「天命」を受ける存在です。

天命が去れば、王朝は滅ぶ。

だから知識人は思う:

私が革命しなくても、天が処理する。

ここで行為主体は「天」です。

人間は秩序の一部にすぎない。

これが「淡白さ」の根拠です。


5 無責任なのか?

一見すると無責任です。

  • 体制は悪い
  • でも自分は去るだけ

しかし彼らの倫理はこうです:

  • 私は徳を保つ責任がある
  • 国家を救う責任はない
  • 天が救う

これは「自己の徳を守る倫理」です。

政治改革よりも、人格の保持が優先される。


6 日本との決定的違い

日本では、忠誠は人格的関係でした。

丸山眞男が指摘したように、日本的忠誠は

  • 主君と家臣の相互依存
  • 情緒的結合

が強い。

だから裏切りは裏切りとして重い。

しかし中国儒教官僚は

  • 個人的忠誠ではなく
  • 原理への忠誠

です。

だから去ることが裏切りにならない。


7 近代的自我との関係

この態度は実はかなり近代的です。

なぜなら:

  • 私は原理に従う
  • 原理を失った権力に従わない

これはある意味で

キェルケゴール的です。

ただし決定的違いがある:

キェルケゴールは「神の前に単独者として立つ」。

中国知識人は「天理の秩序の一部として退く」。

前者は実存的孤立、
後者は宇宙的調和。


8 クールさの本質

この態度がニヒルに見える理由は、

「情熱的な革命」を拒否するからです。

しかしそれは冷笑ではない。

それはこういう姿勢です:

世界を背負わない。

これはある意味で高度に成熟した態度です。

自分を絶対化しない。


9 限界

しかし問題もあります。

  • 悪政を放置する
  • 倫理を自己保存に閉じる
  • 社会的責任が弱い

これは近代民主主義とは緊張関係にあります。

民主主義では:

去るのではなく、変える

ことが期待される。


10 現代日本への含意

実は日本の官僚文化の一部にも、この儒教的態度は残っています。

  • 組織が腐れば異動する
  • 辞職する
  • しかし闘わない

これは武士道ではない。

むしろ中国的知識人の系譜に近い。


まとめ

「君、君たらざれば去る」という原則は:

  1. 皇帝より上位に道徳原理を置く
  2. 個人の徳を守ることを優先する
  3. 政治を天命の問題として相対化する
  4. 情緒的忠誠を持たない
  5. 世界を背負わない

だからクールで、ニヒルに見える。

しかしそれは

自己の内なる原理への忠誠

という、非常に一貫した倫理です。


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