「権威主義への回帰」という現象は、現代の民主主義が成熟した結果として訪れた「自由の耐えがたさ」に対する、人類の集団的な「心理的退行」であると解釈できます。
「超越者の内在化」という概念、およびこれまでのSNS論や精神分析的考察を繋ぎ合わせると、なぜ今、世界中で(そして日本で)強権的なリーダーや排他的なナショナリズム、あるいは教条的なイデオロギーといった「外部の権威」への回帰が起きているのか、その心理構造が鮮明に浮かび上がります。
権威主義回帰の心理構造:自由という「見捨てられ不安」からの逃走
序:「内なる超越者」の不在が招く真空状態
エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で指摘したように、近代化によって伝統的な共同体や宗教的権威から解放された個人は、同時に耐えがたい「孤独」と「無力感」に直面しました。
本来、この孤独を克服する唯一の道は、自己の内部に「理想的超越者(内なる法)」を確立し、自律的な主体となることでした。しかし、この「内在化」は極めて高い精神的コスト(孤独に耐える力、絶えざる自己対話)を要求します。
現代社会において、この内在化に失敗し、内面が「空虚」になった人々にとって、自由は「特権」ではなく「見捨てられた不安」へと変質しました。その空虚を埋めるために、人々は再び「強力な外部の権威」との一体化を求め始めているのです。
1. 超自我の放棄と「理想化された他者」への委ね
精神分析的に見れば、権威主義への回帰は、自律的な超自我の機能を停止させ、それを外部のリーダーや集団に「丸投げ」するプロセスです。
- 自律の断念: 自分で善悪を判断し、責任を取ることは苦痛です。そのため、人々は「これを信じれば救われる」「あいつらが敵だ」と断定してくれる強権的なリーダーに、自分の超自我を投影します。
- 全能感の共有: 無力な個人は、強大な権威(国家、強い指導者、絶対的正義を掲げる集団)の一部となることで、擬似的な全能感を得ます。これは、分立した個体が再び「全能の親」と一体化しようとする退行的な欲求です。
2. SNSによる「水平的権威主義」の増幅
現代の権威主義は、必ずしも一人の独裁者を必要としません。SNS時代のそれは、「多数派という名の非人格的な権威」への回帰として現れます。
前項で議論した「分散した外部超自我(SNSの視線)」は、個人に「正解の同調」を強く迫ります。ここでは、超越者は「天」や「道」のような垂直の軸ではなく、タイムラインを支配する「圧倒的な空気」という水平の軸として機能します。
この「空気への隷属」は、丸山眞男が批判した日本的な権威主義のデジタル版であり、思考を停止して集団の熱狂に身を任せることで、個人の孤独を解消しようとする心理機制です。
3. 「父性的な法」の喪失と「母性的な保護」への渇望
現代の権威主義回帰の興味深い特徴は、それが「厳しい規律」を求める一方で、実は「全面的な保護」を求めている点にあります。
- 峻厳な父(内在化された超越者): 自己を律し、孤独に立たせる。
- 権威主義的リーダー: 「私に従えば守ってやる。悪いのは外部の敵だ」と囁く。
これは、自律を促す「父性的な法」の確立に失敗した自我が、再び無条件の受容を求める「母性的な抱擁」としての権威を求めている状態です。ナショナリズムや排外主義が、しばしば「母国を守る」というレトリックを伴うのは、それが「分離―個体化」を拒絶する退行的な心理に訴えるからです。
4. 科挙知識人的な「クールな自律」の対極として
中国の科挙知識人が持っていた「君、君たらざれば去る」という態度は、権威主義に対する最大の解毒剤です。彼らは「道」を内在化しているがゆえに、地上の権威を相対化し、ニヒルに突き放すことができました。
対照的に、権威主義に回帰する人々には、この「突き放す(分離する)力」が欠如しています。彼らにとって権威は「自分の一部」であり、権威への批判は「自分自身への攻撃」と感じられます。そのため、彼らは自らの正当性を守るために、ますます権威への固執を強め、異論を排除しようとする攻撃性を帯びていきます。
結論:主体性の再建という唯一の処方箋
権威主義への回帰は、人間が「一人で立つこと(主体性の確立)」の重圧に耐えかねて、精神的な幼児期へと逆行しようとする、文明の病理です。
「忠節の内在化」というプロセスは、この病理に対する唯一の処方箋を提示しています。それは、外部の権威(リーダー、世間、アルゴリズム)に自分を預けるのではなく、自分の中に「自分を裁き、かつ支える超越者」を再構築することです。
夏目漱石が孤独の中で「自己本位」を叫び、丸山眞男が「能動的な反逆」の中に真の忠誠を見たように、私たちが現代の権威主義の波に抗うためには、内なる「垂直の軸」を立て直さねばなりません。
自由とは、単に束縛がないことではなく、「自分の中に、外部のいかなる権威をも相対化し得る『より高次な審判官』を持っていること」です。この「内なる超越者」との対話を取り戻すことだけが、権威主義という名の心地よい隷属から、私たちを救い出す道なのです。
