ガエミの精神医学批判は、単なる「現状への文句」ではなく、**「精神医学がいかにして科学的・哲学的な深みを失い、マニュアル化してしまったか」**という鋭い歴史的・哲学的分析に基づいています。
彼は特に、現代精神医学の聖典ともいえる**DSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)の偏重と、「生物心理社会(BPS)モデル」**の形骸化を激しく批判しています。
1. 「生物心理社会(BPS)モデル」の形骸化への批判
1970年代にジョージ・エンゲルが提唱した「生物心理社会モデル(Biopsychosocial Model)」は、患者を「生物学」「心理学」「社会学」の3側面から統合的に診るという理想的なものでした。しかし、ガエミは著書『The Rise and Fall of the Biopsychosocial Model』の中で、これが**「何でもありの無秩序(Eclecticism)」**に陥ったと指摘しています。
- 批判点: 現代の医師は「少し薬を出し、少し話を聞き、少し環境を整える」といった曖昧な折衷案でお茶を濁し、「なぜその治療が必要なのか」という科学的優先順位を失っている。
- ガエミの主張: すべての要因を等しく扱うのではなく、疾患の本質(生物学的なものか、存有的・心理的なものか)を見極め、適切なメソッドを選択する「多元主義」が必要である。
2. DSM(診断マニュアル)という「チェックリスト」への不信
現在の精神医学は、患者の症状がチェックリストの項目にいくつ当てはまるかで診断を決めます。ガエミはこれを**「科学ではなく、単なる統計的合意に過ぎない」**と断じています。
- 信頼性 vs 妥当性: DSMは「誰が診ても同じ診断になる(信頼性)」ことには成功したが、「それが本当にその病気の本質を突いているか(妥当性)」を置き去りにした。
- 症状と疾患の混同: 例えば「悲しみ」という正常な感情を、「抑うつ症状の項目」に当てはめて「うつ病(疾患)」と診断してしまうような「診断のインフレ」が起きている。
3. カール・ヤスパースへの回帰:説明(Erklären)と理解(Verstehen)
ガエミは、ドイツの哲学者・精神科医であるカール・ヤスパースの手法を高く評価しています。彼は、精神医学には2つの全く異なるアプローチが必要だと説きます。
| アプローチ | 対象 | 内容 |
| 説明 (Erklären) | 脳の疾患(躁うつ病、統合失調症など) | 生物学的な原因を突き止め、薬物療法などで「治療」する。 |
| 理解 (Verstehen) | 人生の悩み、性格、心理的反応 | 患者の物語を共感的にたどり、その意味を「理解」する。 |
ガエミは、現代の精神医学が**「脳の病気にカウンセリングだけで挑んだり、人生の苦悩に安易に抗うつ薬を出したりする」**という、カテゴリーの取り違え(カテゴリー・エラー)を犯していると批判しています。
4. 現代への提言:「新しい精神医学」
ガエミは、精神科医は「診断名をつける機械」になるのではなく、**「哲学的な思考を持った科学者」**であるべきだと考えています。
「私たちは、患者の脳(神経科学)を理解すると同時に、患者の心(哲学・心理学)を理解する専門家でなければならない。その両者を混同せず、かつ切り離さないのが真の精神医学である」
彼がリチウム(躁うつ病の薬)の重要性を繰り返し訴えるのも、それが「脳の疾患」に対して劇的な効果を持つ「科学的根拠」があるからであり、一方で安易な診断に反対するのは「人間としての尊厳」を守るためでもあります。
ガエミ氏が推奨する治療の優先順位は、彼が「精神医学の父」の一人と仰ぐカール・ヤスパースの**「診断の階層制(Hierarchy of Diagnosis)」**に基づいています。
彼は、現代の精神科医が「うつだから抗うつ薬、不安だから抗不安薬」と、症状に対して反射的に薬を出す現状を**「カテゴリー・エラー」**として厳しく批判しています。彼が提唱する「正しいメソッドの当て方」は以下の通りです。
1. 診断のピラミッド(優先順位)
ガエミは、上位の疾患がある場合、下位の症状はその一部(あるいは二次的なもの)とみなすべきだと主張します。
- 第1層:器質性疾患(脳の病気)
- 原因: 薬物、アルコール、甲状腺機能不全、脳腫瘍など。
- 対応: まずこれらを除外・治療する。これを見逃して精神科薬を出すのは誤り。
- 第2層:躁うつ病(双極性障害)
- 重要性: ガエミが最も強調する点です。「うつ」の症状があっても、過去に一度でも軽躁状態があれば、それは「うつ病」ではなく「躁うつ病」として扱います。
- メソッド: リチウムなどの気分安定薬が最優先。抗うつ薬は(躁転や不安定化を招くため)原則として避けるべき。
- 第3層:単極性うつ病(純粋なうつ病)
- メソッド: ここで初めて抗うつ薬の検討、あるいは心理療法が有効になります。
- 第4層:不安障害・性格・人生の悩み
- メソッド: 基本的に**心理療法(「理解」のアプローチ)**が主役。薬は補助に過ぎません。
2. 「疾患(Disease)」か「苦悩(Distress)」かの峻別
ガエミは、治療メソッドを当てる前に、その状態がどちらに属するかを見極めるべきだと説きます。
A. 生物学的な「疾患 (Disease)」
- 対象: 躁うつ病、統合失調症など。
- メカニズム: 脳の生物学的な機能不全。
- 優先メソッド: 薬物療法(リチウム等)。
- 考え方: 「説明(Erklären)」できる世界。これらに「カウンセリングだけで治そう」とするのは、肺炎を対話で治そうとするのと同じくらい無意味(かつ危険)である。
B. 心理・社会的な「苦悩 (Distress)」
- 対象: 死別、失恋、仕事のストレス、性格傾向(パーソナリティ)。
- メカニズム: 人生の意味や人間関係の葛藤。
- 優先メソッド: 心理療法・哲学・生活習慣の改善。
- 考え方: 「理解(Verstehen)」が必要な世界。これらに「抗うつ薬」を出すのは、悲しみという人間らしい反応を薬で無理やり消すことであり、人間性の否定に繋がる。
3. ガエミ流・治療の鉄則
- 「リチウム・ファースト」: 躁うつ病の可能性がある場合、現代で軽視されがちなリチウムを最も信頼すべき薬として推奨しています。
- 「抗うつ薬への慎重姿勢」: 現代の精神医学は抗うつ薬を出しすぎていると警告します。特に双極性スペクトラムの人に抗うつ薬を出すと、長期的には症状が悪化(慢性化・不安定化)すると説いています。
- 「生活習慣の重視」: 薬だけでなく、運動や睡眠習慣(サーカディアンリズム)の調整を、生物学的な治療の重要な柱として位置づけています。
まとめ:どのメソッドを当てるべきか
ガエミの考えをシンプルにまとめるとこうなります。
「脳の病気(疾患)には科学的根拠のある薬を。心の悩み(苦悩)には、対話と哲学を。この二つを混ぜてはいけない。」
