SNS時代の到来は、これまで議論してきた「超越者の内在化」という課題に対し、「超自我の徹底的な外部化」と「断片化」という、人類史上かつてない事態をもたらしています。
精神分析的、あるいは丸山眞男や漱石の文脈を引き継いで、SNS時代の超自我の変容を分析すると、以下のような「自律的主体の解体」の構図が見えてきます。
SNS時代の超自我変容:分散するパノプティコンと「内面」の消失
序:垂直の軸から「分散した水平の網」へ
近代的主体の確立(自我の確立)とは、神、道、義といった「垂直の軸」を内面化し、他者の視線から独立した「内なる法(超自我)」を持つことでした。しかし、SNS時代において、この超自我は再び内面から引きずり出され、ネットワーク上の「無数の他者の視線」へと分散・外部化されています。
かつて漱石が「自己本位」と呼び、丸山が「能動的な忠誠」の基盤とした「内なる審判者」は、いまや「いいね」や「リポスト」というアルゴリズム化された外部のフィードバックへと差し替えられているのです。
1. 「内なる超越者」から「分散した外部の他者」へ
精神分析的に見れば、超自我は「父の法」であり、一貫性を持った内面的な命令系統です。しかし、SNSにおける規範は、その時々のトレンドや炎上の方向性によって絶えず変動する「分散した他者の集合体」です。
- 近代: 「神(あるいは良心)が見ている」から、正しくあろうとする。
- SNS時代: 「(正体不明の)誰かに見られているかもしれない/承認されないかもしれない」から、適切に振る舞おうとする。
ここでは、超越者はもはや「内在化された原理」ではなく、「遍在する監視網」となりました。フーコーのいうパノプティコン(一望監視施設)が、スマホを通じて個人の内面にまで侵食し、超自我を「自己の外部にあるデータ」へと解体してしまったのです。
2. 「恥の文化」のデジタル化と超自我の幼児化
日本人はもともと「世間の目」という外部の視線を気にする「恥の文化」を持っていました。SNSは、この「世間」をデジタル化し、24時間365日、可視化された数値として突きつけます。
この環境下で形成される超自我は、きわめて「幼児的」かつ「反応的」です。
本来の超自我は、孤独に耐え、自分自身の理想(エゴ・イデアル)を追い求める力を与えますが、SNS時代の超自我は、周囲の反応に即座に同調することを強いる「相互監視のツール」と化しています。そこには、科挙知識人が持っていた「道に外れれば去る」というような、超越的原理に基づいたクールな拒絶の余地はありません。去ることは「デジタル的な死(ネットワークからの切断)」を意味するからです。
3. 「自己本位」の不可能性:編集される自我
漱石の説いた「自己本位」には、他者に見せない「内面の秘密」と、それとの対話が不可欠でした。しかし、SNSは「表出すること(アウトプット)」を強制します。
あらゆる思考や感情が、他者の視線を意識した「コンテンツ」として生成されるとき、人間は「自分がどう思うか」ではなく「他者にどう見えるか」という鏡像的な自己愛のループに閉じ込められます。
この状態では、超自我は「自己を導く法」ではなく、「自己を演出するための検閲官」となります。主体は「内なる超越者」と対話することをやめ、絶えず更新される「外部のタイムライン」に適応するだけの、流動的な存在(リキッド・モダニティ)へと変質します。
4. アルゴリズムという「非人格的な超越者」
SNS時代において、究極の「超越者」の位置に座っているのは、もはや神でも皇帝でも道徳でもなく、「アルゴリズム」です。
アルゴリズムは、私たちが何に怒り、何を喜び、何を望むべきかを、データに基づいて先回りして提示します。これは「超越者の内在化」の最終的な失敗形態とも言えます。超越者が個人の内部に宿るのではなく、巨大な計算機システムが個人の内面をシミュレートし、外部からコントロールしているからです。
丸山眞男が危惧した「無責任の体系」は、いまや「AIとアルゴリズムへの意思決定の丸投げ」という形で、究極の完成を迎えようとしています。
結論:SNS時代における「孤独」の奪還
SNS時代において、改めて「自我の確立」を問うならば、それは「デジタルな外部超自我からの遮断」を意味せざるを得ません。
ネットワーク上の無数の視線をシャットアウトし、自分一人で、あの科挙知識人のような「ニヒルでクールな孤独」を取り戻すこと。あるいは、漱石が絶望の淵で見出したような「内なる天」との対話を再開すること。
SNSがもたらす「つながりの過剰」は、私たちが自分の中に「超越者」を住まわせるための余白(スペース)を奪い去りました。主体を回復するための現代的な倫理とは、スマホを置き、アルゴリズムの審判を拒絶し、再び「誰にも見られていない自分」の中に、垂直の軸(内なる超越者)を立て直すという、きわめてアナログで孤独な闘いになるはずです。
「いいね」の数ではなく、内なる「義」が自分を是認するかどうか。その「淡白でクールな自律性」を取り戻すことだけが、SNSという名の分散したパノプティコンから逃れる唯一の道なのです。
