The rise and fall of the biopsychosocial model(生物心理社会モデルの隆盛と衰退)

2009年に『The British Journal of Psychiatry』に掲載された論文「The rise and fall of the biopsychosocial model(生物心理社会モデルの隆盛と衰退)」は、現代精神医学の「聖典」とも言えるドグマ(教義)に対して、最も鋭い批判を浴びせた論文の一つです。

著者は、タフツ大学のS. ナシール・ガミー(S. Nassir Ghaemi)教授です。彼は、精神医学の哲学的・歴史的背景に精通した論客として知られています。

この論文がなぜこれほどまでに衝撃を与えたのか、その内容を詳しく解説します。


1. 「生物心理社会(BPS)モデル」とは何か?

1977年にジョージ・エンゲルによって提唱されたこのモデルは、精神疾患(および身体疾患)を以下の3つの要素の相互作用として捉えるものです。

  • Bio(生物学的): 遺伝子、脳の構造、神経伝達物質
  • Psycho(心理学的): 性格、トラウマ、思考パターン
  • Social(社会的): 家庭環境、貧困、人間関係

このモデルは、19世紀から20世紀前半の「極端な生物学的決定論」や「極端な精神分析」への反省から生まれ、「人間を丸ごと診る(Holistic)」というスローガンのもと、現代精神医学の標準的な枠組みとなりました。

2. ガミー教授が指摘する「隆盛(Rise)」の理由

BPSモデルが普及したのは、それが「政治的に正しかった」からです。

  • あらゆる分野(医師、心理士、ソーシャルワーカー)に役割を与え、誰も否定しない「平和的な妥協案」として機能しました。
  • 「脳も大事、心も大事、環境も大事」という主張は、道徳的に正しく聞こえるため、教育現場や臨床現場で無批判に受け入れられました。

3. なぜ「衰退(Fall)」したのか(痛烈な批判)

ガミー教授は、BPSモデルは科学的な理論ではなく、「中身のないスローガン(Pious cliché)」に成り下がったと批判します。

① 「何でもあり」の無秩序(Eclecticism)

BPSモデルは「すべてが原因である」と言っているに等しく、優先順位がありません。

  • 「うつ病の治療に、薬が100%必要なのか、カウンセリングが100%必要なのか、あるいは50:50なのか」を判断する指針を、このモデルは提供しません。
  • 結局、医師の個人的な好みや直感(折衷主義)に任されることになり、科学的な精密さを欠いています。

② 「科学」ではなく「ドグマ」

科学的理論は、それが「間違っている」と証明(反証)できる必要がありますが、BPSモデルは何が起きても「生物・心理・社会のバランスが崩れた」と言えてしまうため、科学的な検証が不可能です。

③ 教育への悪影響

若い精神科医が、深い専門知識(高度な薬理学や高度な精神療法)を学ぶ代わりに、「とりあえず全部バランスよく診る」という浅い知識で満足してしまう原因になったと指摘しています。

4. ガミー教授が提案する代替案

ガミー教授は、BPSモデルに代わるものとして以下の2つの方向性を提唱しています。

  1. 方法論的多元主義(Methodical Pluralism):
    カール・ヤスパースの哲学に基づき、「生物学的な病気には生物学的な手法を」「心理的な悩みには心理学的な手法を」というように、対象に合わせて使う武器を明確に分けるべきだという考え方です。
  2. 医学モデル(Medical Model)の再評価:
    「心の問題」と「脳の病気」を混同せず、脳の病気(双極性障害や統合失調症など)に対しては、より厳密な生物学的アプローチをとるべきだと主張しています。

5. この論文の歴史的意義と「New Psychiatry」へのつながり

この論文は、「人間を丸ごと診るという美辞麗句の裏で、精神医学は科学的な鋭さを失っていないか?」という強烈な警告でした。

これまでに解説した他の論文とのつながりで見ると、非常に興味深い構造が見えてきます。

  • 2002年・2022年のパーカー教授(双極性障害):
    BPSモデルが「うつ病」という曖昧なカテゴリーに逃げ込んでいたのに対し、「これは生物学的な『ケイド病』である」と明確に切り分けようとする動きは、ガミーの言う「医学モデルの再評価」に合致しています。
  • 2023年の「New Psychiatry」:
    「脳内の化学物質のバランス(Bio)」という単純な話ではなく、代謝、免疫、環境(Social)を、より科学的・生理学的なメカニズム(代謝精神医学)として統合しようとしています。これは、曖昧なBPSモデルを超えて、新しい次元の「精密な医学モデル」を構築しようとする試みと言えます。

まとめ

ガミー教授のこの論文は、「『すべてが大事』と言うことは、結局『何が一番大事か』を考えていないのと同じだ」という批判です。

精神医学が再び科学としての信頼を取り戻すためには、曖昧な調和(BPSモデル)を一度捨て、それぞれの疾患の根本原因(代謝、遺伝、構造)を突き詰めるべきだという彼の主張は、現代の「新しい精神医学」の流れを予言するものでした。

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