2023年に『Science』誌で発表されたこの論文は、「ヒトの脳全体の細胞図鑑(アトラス)」を、単一細胞レベルの解像度で初めて完成させた歴史的な研究です。
Transcriptomic diversity of cell types across the adult human brain
これまでの脳研究は「大脳皮質(思考を司る表面部分)」に偏りがちでしたが、この研究は脳の奥深く(脳幹や中脳など)までを網羅し、脳がいかに多様な細胞の集まりであるかを明らかにしました。
以下に、その内容を詳しく解説します。
1. この研究の何が凄いの?(「脳のGoogleマップ」の完成)
人間の脳には数千億の細胞がありますが、これまでは「どの場所に、どんな種類の細胞が、どれくらいあるのか」の全体像は分かっていませんでした。
- 規模: 3人のドナーの脳から、計100カ所以上の部位をサンプリング。
- 技術: 単一核RNAシーケンシング(snRNA-seq)という技術を使い、300万個以上の細胞の遺伝子活動を一つずつ解析しました。
- 分類: その結果、ヒトの脳細胞を3,313種類(サブクラス)に分類することに成功しました。
2. 発見その1:脳の「奥深く」は、表面よりも複雑だった
一般的に「人間らしさ」を司る大脳皮質が最も複雑だと思われがちですが、この研究は意外な事実を示しました。
- 中脳・橋・延髄(脳幹)の驚くべき多様性: 呼吸や心拍、本能的な行動を司る脳の古い部分(脳幹や視床下部)には、大脳皮質よりもはるかに多様な種類のニューロンが存在していました。
- 複雑なルール: 大脳の細胞はある程度整然と並んでいますが、脳幹の細胞は、複数の神経伝達物質(ドパミン、セロトニンなど)を複雑に組み合わせて使う、非常にユニークな細胞の集まりであることが分かりました。
3. 発見その2:神経以外の細胞(グリア細胞)も地域性がある
脳にはニューロン(神経細胞)以外に、それを支える「グリア細胞(アストロサイトやオリゴデンドロサイトなど)」があります。
- これまでは「グリア細胞は脳のどこでも同じようなもの」と考えられてきましたが、この研究により、グリア細胞も場所によって遺伝子のスイッチの入り方が全く異なることが判明しました。
- 特に、大脳(前脳)のグリア細胞と、それ以外の地域のグリア細胞では、明確な違いがありました。
4. 発見その3:細胞は「生まれ(発生)」を覚えている
脳の細胞がどの種類になるかは、胎児のときの「発生の歴史」に強く依存していることがデータから裏付けられました。大人になっても、それぞれの細胞の遺伝子活動には、自分が脳のどの場所から生まれてきたのかという「記録」が刻まれています。
5. 前に出した2つの論文(双極性障害の研究)との繋がり
ここが最も重要なポイントです。
- 2014年の論文: 「躁とうつは遺伝的に別物かもしれない」という仮説を立てました。
- 2025年の論文: 「双極性障害に関わるのはGABA作動性介在ニューロンや中型有棘ニューロンだ」と特定の細胞を指名手配しました。
- 今回の2023年の論文(本論文): その指名手配された細胞が、「脳のどこに、どんな性質を持って、どのように分布しているのか」を調べるための「詳細な地図」を提供しました。
例えば、2025年の論文で「中型有棘ニューロン」が重要だと分かりましたが、この2023年のアトラスを見れば、その細胞が中脳や線条体でどのような遺伝子を働かせているのかを精密に把握できます。
結論
この研究は、ヒトの脳という複雑な臓器の「全細胞リスト」を作り上げました。
これにより、精神疾患や神経変性疾患(認知症など)が「脳のどの特定の細胞の、どの遺伝子の異常で起きるのか」をピンポイントで突き止めるための土台が整ったと言えます。
まさに、これからの脳科学・精神医学のあらゆる研究における「標準的な教科書」となるデータセットです。
