2026年1月8日発行の『Nature』誌に掲載されたこの論文(Grotzingerらによる研究)は、「14種類の精神疾患の遺伝的な地図」を100万人以上のデータから描き出した、歴史的な集大成といえる研究です。
Mapping the genetic landscape across 14 psychiatric disorders 2025
「双極性障害(2014/2025年)」「脳の細胞地図(2023年)」「臨床症状のレビュー(2023年)」といった点在していたパズルが、この巨大な研究によって「精神医学全体の設計図」として一つに繋がりました。
以下に詳しく解説します。
1. 研究の圧倒的な規模
- 対象: 14種類の精神疾患(統合失調症、双極性障害、うつ病、ADHD、自閉症、不安症、PTSD、拒食症、強迫性障害、アルコール・薬物依存など)。
- 人数: 患者数 約105万人、対照群 約280万人という、精神医学史上最大級の規模です。
- 発見: 298箇所の遺伝子領域を特定。これは過去の同様の研究の約4倍の発見数です。
2. 精神疾患を5つの「グループ」に再編した
従来の精神医学は「症状」で病名を分けていましたが、この研究は「遺伝子の重なり」から、14の疾患を大きく5つの共通因子(グループ)に整理しました。
- SB因子 (統合失調症・双極性障害): 「幻覚や妄想、激しい躁」といった特徴が近い。
- Internalizing因子 (うつ病・不安症・PTSD): 「落ち込み、不安」といった内面的な苦痛が近い。
- Compulsive因子 (強迫性障害・拒食症): 「こだわり、繰り返す行動」が近い。
- Neurodevelopmental因子 (自閉症・ADHD): 「脳の発達過程」の遺伝的背景が近い。
- SUD因子 (薬物・アルコール依存): 「依存しやすさ」が共通している。
3. 「どの脳細胞が関わっているか」の特定
この研究の最も画期的な点は、2023年の「脳の細胞地図(Silettiら)」のデータを活用し、各グループがどの細胞でエラーを起こしているかを突き止めたことです。
- SB因子(統合失調症・双極性障害): 脳の「興奮性ニューロン(アクセル役の神経)」に異常が集中している。
- Internalizing因子(うつ病・不安症): 驚くべきことに、神経細胞そのものよりも、神経を支える「オリゴデンドロサイト(絶縁体の役割をするグリア細胞)」の異常が強く関わっている。
- 全体共通(p-factor): すべての精神疾患に共通する根本的な遺伝リスクは、「GABA作動性ニューロン(ブレーキ役の神経)」や、胎児期の脳の発達に関連している。
4. これまでの論文との「点と線の繋がり」
これまでの一連の論文が、この『Nature 2026』で以下のように完結します。
- 2014年 (Merikangasら): 「躁とうつは独立している」という予言。
→ 今回の研究でも、双極性障害が「SB因子(躁・精神病症状)」と「Internalizing因子(うつ症状)」の両方にまたがっていることが証明されました。 - 2023年 (Silettiら): 「脳の細胞3,313種類のカタログ」を作成。
→ このカタログがあったからこそ、今回の研究で「SB因子は興奮性ニューロンだ」と精密に特定できました。 - 2023年 (van Looら): 「臨床症状(発症年齢や幻覚)が遺伝の鍵だ」と指摘。
→ 今回の研究で、症状の重なり(併存症)こそが遺伝的因子の正体であることがデータで裏付けられました。 - 2025年 (O’Connellら): 「双極性障害の36個の核心遺伝子」を特定。
→ その遺伝子たちが、実は他の13の疾患とも複雑にネットワークを形成していることが今回の地図で判明しました。
結論:この研究がもたらすパラダイムシフト
この研究は、「精神疾患の診断基準を、見た目の症状から、裏側の生物学(遺伝子と細胞)へと作り変えるべきだ」という強いメッセージを発信しています。
- 併存症の謎が解けた: なぜ「うつ病」の人が「不安症」を併発しやすいのか? それは Internalizing因子という共通の遺伝的エンジンで動いているからです。
- 新しい治療戦略: 例えば、SB因子のグループ(統合失調症や双極性障害)には「興奮性ニューロン」を標的にした薬、Internalizing因子のグループには「グリア細胞」を保護する薬、といった具合に、疾患の枠を超えた新しい薬の開発が可能になります。
精神医学が「経験に基づいた診断」から、ついに「設計図に基づいた精密医療」へと進化しようとしていることを告げる、記念碑的な論文です。
