「躁病優位説(Primacy of Mania)」:うつは躁の結果である

躁うつ病の「ハイ」と「ロー」の真実:躁病優位説への招待

1. はじめに:私たちが抱く「躁とうつ」のイメージを塗り替える

躁うつ病(双極性障害)という言葉を聞いたとき、多くの人は「ものすごく元気な状態(躁)」と「ひどく落ち込んだ状態(うつ)」が、シーソーのように交互に、独立してやってくるイメージを抱くのではないでしょうか。しかし、近年の精神医学の深層では、この「ハイ」と「ロー」の関係性を根底から覆す、驚くべき視点が議論されています。

現代の一般的な診断基準では、「うつ」は幅広く定義される一方で、「躁」は多幸感や活動亢進といった狭い範囲でしか捉えられない傾向があります。しかし、アタナシオ・クコプロス博士らが提唱した視点はその逆です。それは、**「躁(興奮)こそが病の主役であり、うつはその結果として生じる後遺症に過ぎない」**という「躁病優位説(Primacy of Mania)」です。

本書の目的は、この革新的な視点を紐解くことで、あなたが自身の「波」を制御するための知恵と、未来への確かな希望を手にすることにあります。この新しい眼鏡で自分を見つめ直したとき、これまでバラバラに見えていた症状が、一つの物語として繋がり始めるでしょう。

理解を深めることは、嵐を鎮めるための第一歩です。それでは、次章でこの説の核心である「なぜ、うつは躁から生まれるのか」という衝撃のメカニズムに迫りましょう。

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2. 「躁病優位説(Primacy of Mania)」の衝撃:うつは躁の結果である

精神医学者アタナシオ・クコプロスが提唱した「躁病優位説」は、躁とうつを単なる対等な「気分の変化」とは見なしません。彼は、うつ状態を「躁状態という激しい興奮プロセスの帰結」と定義しました。

脳にとって、躁状態とはエネルギーが際限なく燃え上がる「過剰な興奮プロセス(Excitatory Process)」です。この高電圧の負荷が長く続くと、脳の神経系は疲弊し、限界を迎えます。すると脳は、さらなるダメージから自分自身を守るために、強制的にシャットダウンを行います。これこそが、私たちが経験する「うつ」の正体です。つまり、うつは過剰な興奮による「神経的な枯渇」であり、脳が身を守るための防衛的な反応なのです。

躁病優位説の核心:3つのポイント

  • 1. 躁がすべての主導権を握る 病の本質的なエンジンは「興奮プロセス(躁)」にあります。この興奮が点火されることで、病気のサイクルが回り始めます。
  • 2. うつは興奮の「影」であり「後遺症」である うつ状態は、高く跳ね上がったボールが地面に叩きつけられる反動のようなものです。躁という原因がなければ、その影としてのうつも生じません。
  • 3. 治療の真の標的は「躁」である うつを無理に引き上げようとするのではなく、根本にある「過剰な興奮」を早期に抑え込み、安定させることこそが、次に来るはずの深い谷(うつ)を未然に防ぐ鍵となります。

躁とは、単なる「元気すぎる時間」ではありません。次節では、私たちが「喜び」だと思い込んでいる状態の裏側に隠された、興奮の真の姿について解説します。

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3. 「ハイ」の正体は「喜び」だけではない:興奮の多様なグラデーション

私たちは「躁」と聞くと、おしゃべりで社交的、自信満々な姿を想像しがちです。しかし、クコプロス博士やハインツ・グルンツェ博士らは、より広い視点で躁病を定義しています。

躁の本質は「多幸感」だけではありません。それは、イライラ、焦燥感、攻撃性、そして無秩序な活動性といった、不快な感情を伴う**「広範囲な興奮状態」**をすべて含みます。特に、躁とうつが混ざり合った「混合状態」は、エネルギーは過剰なのに気分は最悪という、いわば「エンジンは全開なのにブレーキがロックされている高電圧のショート」のような苦しい状態です。

また、意外な事実として、躁状態は決して「意識が冴え渡っている」わけではありません。

「躁病の本質は、単なる喜びや活動の亢進ではない。それは幅広い興奮行動であり、実は『ヴィジランス(覚醒的な警戒・注意能力)の低下』を伴う状態である」(ハインツ・グルンツェらの指摘に基づく)

このように、躁とは「自分をコントロールする力が弱まり、脳が空回りしている状態」を指すのです。この目に見えにくい、そして自覚しにくい「興奮」を放置してしまうことが、なぜ次にやってくる深い落ち込みを招くのか。その因果関係を知ることで、治療の新しい戦略が見えてきます。

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4. なぜ「高揚」を抑えることが「落ち込み」を防ぐ鍵なのか

「うつが辛いから、気分を上げる薬が欲しい」と願うのは、苦しみの渦中にいれば当然の心理です。しかし、躁病優位説に基づけば、うつを無理に「持ち上げる」だけのアプローチは、火に油を注ぐようなリスクを伴います。

無理に気分を上げようとする抗うつ薬の使用は、脳の興奮プロセスをさらに刺激し、結果としてより激しい躁を引き起こしたり、波の入れ替わりが激しくなる「ラピッド・サイクリング」を招いたりして、病状を複雑にする可能性があるからです。

そこで重要になるのが、ディナ・ポポヴィッチ博士らが提唱する**「ポラリティ・インデックス(極性指数)」**という考え方です。これは各薬剤が「躁の予防」と「うつの予防」のどちらにどれだけ強いかを示す指標で、患者さんが「躁になりやすいか、うつになりやすいか」という個別の特性に合わせて、最適な薬剤を選ぶ手助けとなります。

アプローチの焦点従来の抗うつ薬中心のアプローチ躁病優位説に基づくアプローチ
主な目的落ち込んだ気分を直接引き上げる脳の過剰な興奮(躁)を鎮める
メカニズム一時的な気分の浮揚を狙う興奮プロセスの安定化と脳の休息
長期的結果躁転や混合状態、病状の複雑化のリスク「波」そのものを平らかにし、うつを二次的に予防する

「高すぎる波(躁)」を抑えることは、あなたの輝きを消すことではなく、次にやってくる「深い谷(うつ)」からあなたを守るための、最も合理的で慈愛に満ちた戦略なのです。

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5. 自分を知るための手がかり:ハゴップ・アキスカルの「気質」理論

理解を深めるための最後のピースとして、精神医学者ハゴップ・アキスカルが提唱した「気質(テンペラメント)」について触れましょう。

理解していただきたいのは、躁うつ病という「エネルギーの波」は、決して何もないところに突如現れるわけではないということです。それは、あなたが生まれ持った「心の土壌(気質)」の上に築かれます。

あなたの「感情のブループリント」を形作る5つの気質

  1. 抑うつ気質(Depressive):静かで思慮深く、真面目で誠実。悲観的になりやすい面もある。
  2. 高揚気質(Hyperthymic):常にエネルギーに満ち、社交的で自信家。短い睡眠でも活動できる。
  3. 循環気質(Cyclothymic):熱狂と落胆、活動的と静止が交互に現れる。感受性が非常に豊か。
  4. いらだち気質(Irritable):エネルギーはあるが、それが不満や攻撃性、鋭い批判として現れやすい。
  5. 不安気質(Anxious):警戒心が強く心配性。常に周囲に対して高い緊張感を持っている。

アキスカルは、これらの気質は「病気」そのものではなく、人間性の多様な色彩であると説きました。特に循環気質や高揚気質を持つ人々は、ヴィンセント・ファン・ゴッホやヴァージニア・ウルフのように、驚くべき創造性や芸術的な才能を発揮することが多々あります。

自分の気質を知ることは、弱点を探すことではありません。自分の中に眠る豊かなエネルギーの性質を理解し、それを破壊的な嵐ではなく、創造的な波へと変えていくための道標なのです。

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6. まとめ:穏やかな波と共に生きるために

躁病優位説を理解することは、自分を責めるのをやめることにも繋がります。うつ状態のときの無気力感は、決してあなたの怠慢ではなく、脳が嵐から自分を守ろうとしている証拠なのです。

この知識は、あなたに「自己管理」という新しい力を与えてくれます。最後に、今日からあなたが歩み始めるための3つの指針を提示します。

これからの歩みのための3つの指針

  • 1. 社会リズムの安定(IPSRT) 脳のバイオリズムを安定させる最大の鍵は、睡眠や活動といった「生活習慣」を一定に保つことです。出典にあるIPSRT(対人関係・社会的リズム療法)が教えるように、**「社会的リズムの乱れ(Social Rhythm Disruption)」**を防ぐことが、脳の体内時計を守る盾となります。
  • 2. 予防としての薬物療法の理解 「今」の気分を変えるためだけでなく、未来の自分を「興奮の枯渇」から守るために、ポラリティ・インデックスなどの知見に基づいた気分安定薬の役割を信頼してください。
  • 3. 自分のトリガー(引き金)の把握 どのような刺激が自分の「興奮プロセス」に火をつけるのかを観察しましょう。自分自身の気質を愛し、そのエネルギーをコントロールする術を学ぶことが大切です。

躁うつ病と共に生きる道は、決して色彩のない平坦な人生を送ることではありません。それは、あなたの中に眠る力強いエネルギーを、心地よく揺れる穏やかな波へと調律していくプロセスです。

あなたのこれからの歩みが、自分自身への深い慈しみと、新しい気づきに満ちたものになることを心から願っています。


とはいいながら、現在2026年時点では、精神病全般に遺伝子分析が莫大に進行して、要するに、遺伝子要因が非常に大きいことは既に了解事項である。そこをターゲットに薬剤の開発が進行するのだろう。
ただ、うつ状態・うつ病と認定されるものの中にはいろいろな物が混じっているはずで、manieが原因でその後にうつ病になるケースがあるだろうとは思う。
少数ではあるが、manieの後のうつ、シゾフレニーの後のうつ、昇進うつ病、引っ越しうつ病など、躁病優位説(Primacy of Mania)と類似の論理で説明できるものがありそうだというだけのことである。
理屈としては理解しやすくて興味深いので、取り上げている。

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