生命の「意味」について


生命の「意味」について

 近代という時代は、あらゆるものに「意味」と「目的」を求める時代であった。教育は立身出世のためであり、国家の歩みは進歩のためであり、個人の生は自己実現という名の「正解」へ至るための過程であると信じられてきた。しかし、そのような過剰な意味付けの重荷が、現代人の精神をいかにも窮屈にさせているように見えてならない。

 リチャード・ドーキンスがかつて提示した進化生物学の視点は、こうした人間中心的な目的論に冷や水を浴びせる。それによれば、我々の身体も心も、数億年にわたって連綿と続く遺伝子(DNA)という設計図が、自らのコピーを次代に運ぶために作り上げた「生存機械」に過ぎないという。キリンの首が長いのも、人間が言葉を操るのも、あらかじめ決められた崇高な目的があったからではなく、たまたまその変異が、その時々の環境という「テスト」に適合したという結果論にほかならない。

 この視点に立てば、私たちが後生大事に抱えている「善悪」の観念さえも、集団の生存を有利にするための精巧な生存戦略、あるいは生物学的な道具立てとして再定義されることになる。平和を尊び、隣人を助けることが「善」とされるのは、それが宇宙の真理だからではなく、そのように振る舞う集団の方が、結果として遺伝子を効率よく残せたからだ、というわけである。

 一見すると、これは極めてドライで、虚無的な世界観に映るかもしれない。人生には、天から与えられた使命も、あらかじめ用意された正解もない。私たちはただ、広大な宇宙という実験場に放り出された、精巧なバイオロボットのような存在であるというのだから。

 しかし、私は思うのだが、この「意味の欠如」こそが、実は人間を真に自由にするのではないか。もし人生に「正しい目的」や「果たすべき使命」が絶対的なものとして存在するならば、そこから外れた者はすべて「失敗作」という烙印を押されることになる。それは救いのない決定論である。

 だが、生の本質がDNAによる「試行錯誤の途中経過」であるとするならば、そこには失敗という概念自体が存在しない。あるのはただ、特定の環境下における一つの「試行」のデータだけである。私たちがどのように悩み、どのようにあがき、あるいはどのように失敗したとしても、それは遺伝子という壮大な実験の特等席で眺めるべき、興味深い現象にすぎないのだ。

 「生きる意味」という幻想を追い求めるあまり、今ここにある生そのものを見失うのは本末転倒であろう。意味がないからこそ、私たちは自らの生を、誰に強制されることもない独自の「実験」として愉しむことができる。空に浮かぶ雲が形を変えるように、あるいは雨が理由なく降るように、ただ存在し、自らの内なる遺伝子がこの現代という環境にどう反応するかを、知的な好奇心を持って眺めていればよい。

 夕陽が沈むのを眺めながら、自らを一基の「生存機械」として客観視してみる。そこには、意味の重縛から解き放たれた、静かな自由の風が吹いているはずである。

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