署名のない報告書
——進化論的ニヒリズムと倫理の構造
宇宙に目的はない。
生物に本質もない。
あるのはただ、自己複製子としてのDNAが、選択圧のなかで存続確率を上げ続けてきたという事実だけである。
この立場を徹底すれば、いわゆる「進化論的ニヒリズム」に至る。
そこでは善も悪も、ただの適応戦略である。
利他性は血縁淘汰の副産物であり、協力は互恵性の安定化条件にすぎず、道徳感情は集団維持に有利だった神経回路の残響である。
倫理は、存在論的根拠を失う。
正しさは真理ではなく、適応度の局所最大値にすぎない。
ここまでが第一段階である。
しかし、この整理はまだ半分にすぎない。
なぜなら、このニヒリズムを認識している主体そのものが、すでに進化の産物だからである。
脳はDNAの戦略装置として発達した。
だがその過剰な計算能力は、自己を対象化し、「意味はない」という結論にまで到達する。
ここで奇妙なねじれが生じる。
- 進化は倫理を適応戦略に還元する。
- しかし脳は、その還元を理解しながら、それでもなお倫理を手放さない。
なぜか。
理由は単純である。
倫理は「真理」だから保持されるのではなく、
倫理的に振る舞う存在であることが、自己理解の条件になっているからだ。
人間は単なる生存機械ではなく、
「自分が何者であるか」を問う装置を内蔵している。
この自己理解の構造が、進化論的ニヒリズムを完全な破壊へと進ませない。
倫理は、もはや宇宙的命令ではない。
しかしそれは、自己を維持するための存在様式となる。
ここで区別すべきなのは、二つの水準である。
① 存在論的水準
宇宙に目的はない。
倫理に超越的根拠はない。
② 実存的水準
それでもなお、他者を見捨てないという態度を選びうる。
進化論的ニヒリズムは①を明確にするが、②を消去することはできない。
なぜなら、②の選択を行う主体そのものが、進化の帰結だからである。
つまり、倫理は「自然に反するもの」ではない。
むしろ、自然が生んだ過剰の結果である。
この過剰性が重要である。
DNA原理は存続を目指す。
脳原理は意味を生成する。
倫理はその両者の緊張のなかで生じる。
倫理とは、生存を最大化する規則ではない。
意味を保証する教義でもない。
それは、「合理的根拠が崩れたあとに、それでもなお選び続ける態度」である。
ここで祈りが再び現れる。
祈りは、因果的効果を期待する行為ではない。
進化的利益を見込む戦略でもない。
それは、意味が保証されないと知りながら、関与を撤回しない姿勢である。
進化論的ニヒリズムは、「世界に意味はない」と言う。
倫理は、「それでも私はこう振る舞う」と応答する。
この応答は論理的必然ではない。
しかし、自己を観察する存在が必然的に直面する問いへの実践的な回答である。
もし倫理が完全に幻想であるなら、
その幻想を理解しながらなお選ぶという行為もまた、進化の事実である。
ここで倫理は、超越的命令ではなくなる。
だが同時に、単なる適応戦略でもなくなる。
それは、
「意味がないと知りながら、意味的に振る舞う存在」
という人間の構造そのものになる。
進化論的ニヒリズムは、倫理を破壊するのではない。
むしろ倫理を、より孤立した、より根拠のない、しかしより自覚的な営みへと純化する。
神なき世界で倫理を保持すること。
保証なき宇宙で祈ること。
それは合理性の延長ではない。
合理性が自らの限界を知った地点で生まれる、第二の選択である。
その選択を「無意味」と呼ぶことはできる。
しかし同時に、それこそが進化が生んだ最も美しい誤作動かもしれない。
