精神科臨床の倫理的判断


署名のない報告書

——進化論的ニヒリズムと精神科臨床倫理

進化論的ニヒリズムは言う。
生存は偶然の累積であり、倫理は適応戦略の副産物にすぎない。

この立場を受け入れるとき、精神科臨床は奇妙な位置に置かれる。

なぜなら精神科医は、
「生きる意味がない」と語る患者に対して、
なお「それでも生きてほしい」と関与するからである。

もし倫理が単なる生存戦略なら、
自殺願望を持つ個体に対する介入は、
集団安定のための調整行為にすぎないことになる。

しかし実際の臨床は、それほど単純ではない。

Ⅰ 自律と保護の緊張

精神科臨床で最も鋭く現れる倫理的葛藤は、
「本人の意思を尊重すること」と
「生命を保護すること」の衝突である。

進化論的観点からすれば、
生命維持は最優先の原理である。

だが、脳は自己を対象化し、
「生きない」という選択肢を構想する。

ここで医師は問われる。

  • 自己決定を尊重すべきか
  • 生物学的存続を優先すべきか

この葛藤は、DNA原理と脳原理の衝突の縮図である。

だが臨床の現場で下される判断は、
単純な原理の適用ではない。

強制入院の決定。
身体拘束の是非。
リスク評価と自由の制限。

そこでは「正しい答え」は存在しない。
存在するのは、損失の配分だけである。

倫理とは、最小の破壊で済ませようとする努力の技術になる。


Ⅱ 意味を回復するのではなく、関係を保持する

多くの患者は、「意味がない」と語る。
進化論的ニヒリズムは、それを論理的に否定しない。
宇宙に意味はない、という主張自体は整合的である。

では臨床は何をしているのか。

精神療法が試みるのは、
「意味の証明」ではない。

それは、意味が崩れた後も、
関係が切断されないことを示す行為である。

患者が言う。
「何も感じない。」

医師は答える。
「それでも私は、ここにいます。」

この応答は、哲学的反論ではない。
存在論的反証でもない。
それは倫理的立場表明である。

倫理はここで、
「意味の真偽」ではなく
「関係の持続」として現れる。


Ⅲ 進化論的ニヒリズムを通過した倫理

進化論的ニヒリズムを知らない倫理は、
容易に道徳的確信へと変質する。

しかし、意味の不在を理解したうえで
なお関与を選ぶ倫理は、性質が異なる。

それは命令ではなく、
自覚的な選択である。

精神科医が自殺を思いとどまらせるとき、
それは宇宙的正義の執行ではない。

それは、
「あなたの存在を無価値とは見なさない」
という個人的決断である。

この決断に、絶対的根拠はない。
だが、根拠の不在を理解しているがゆえに、
その決断はより重くなる。


Ⅳ 祈りの倫理

臨床における祈りとは、
治癒の保証を信じることではない。

それは、回復の確率が低いと知りながら、
なお治療を継続する姿勢である。

慢性統合失調症の患者。
反復する自殺未遂。
治療抵抗性うつ病。

改善の統計は冷たい。
だが医師は関与をやめない。

なぜか。

それは、生存確率の計算では説明できない。
意味の証明でもない。

それは、
「離脱しない」という倫理的選択である。

祈りとはここで、
超自然的期待ではなく、
倫理の持続形態になる。


Ⅴ 結論:臨床は進化の誤作動か

もし進化論的ニヒリズムが正しいなら、
精神科医の営みは、
生存機械が内蔵した過剰機能の延長にすぎない。

しかし、その過剰機能こそが、
他者の苦痛を引き受ける能力を生んだ。

倫理は自然に反しているのではない。
自然が生み出した自己反省の結果である。

精神科臨床は、
意味なき宇宙の中で、
意味を証明せずに関与を続ける実践である。

それは理論ではない。
戦略でもない。

保証なき場所で、
それでもなお、共にいるという選択。

進化が生んだこの「過剰」が、
人間の最も不合理で、
そして最も美しい機能かもしれない。


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