署名のない報告書 ——「生存機械」の祈りについて
宇宙には、あらかじめ印刷されたプログラムも、親切な案内図も用意されていない。神の存在も不明であり、神の意思も不明である。まして、神の善意は、ここ十年、個人的には忘れたままだ。銀河の回転に意志はなく、星の誕生に理由はない。人間の脳はあれこれ考えるのだが、あるのはただ、数億年という時間をかけて、砂漠の砂を噛むように繰り返されてきた、「DNA」という名の試行錯誤だけである。
我々の肉体とは、その署名のない設計図を次代へ運ぶための、いわば「頑丈な梱包箱」にすぎない。ライオンが獲物を引き裂くのも、クジャクが不自然なまでに羽を広げるのも、そして人間が恋に落ちるのも、時には心中するのも、すべては箱の強度を保ち、配送の成功率を高めるための、退屈なアルゴリズムの帰結である。ここでは、善悪も道徳も、すべて、効率的な配送ルートを確保するための「生存戦略」という名の法則に還元される。
ところが、この完璧な自動機械の中に、最先端の装置が発生し、しかもそこに、一つの致命的な「バグ」が発生した。それが我々の「脳」である。
本来、DNAを能率よく安全に運ぶための確率計算ナビゲーターとして発達したはずの脳は、その演算能力を余らせるあまり、あろうことか主人であるDNAの意図を裏切り始めたのだ。脳は「意味」という名の偽札を刷り、生殖という工場の生産ラインを「自己実現」や「自由」といった美辞麗句でボイコットする。現代の少子化とは、高度に発達した情報端末が、中央処理装置(DNA)に対して起こしたストライキにほかならない。生物学的な倒錯が、合理性という名の外套を羽織って闊歩している。
では、この「意味」という名の幻影に追い詰められた遺伝機械は、どこへ向かうのか。
精神療法の部屋という、密封された白い無菌室を想像してみるがいい。そこでは、絶望という名の壁に突き当たった二つの個体が、沈黙の中で対峙している。そこにあるのは、神への懇願ではない。DNAという盲目の意志(DNA原理)にも、脳という独りよがりの論理(脳原理)にも属さない、それは第三の次元——「知らないこと」への開かれともいうべき何かである。DNA原理を裏切り、脳原理を出し抜いて、沈黙の祈りが和音を変化させながら反響している。
精神科医が、死にたいと願う患者の隣で「それでも私は、あなたがここに生きることを諦めない」と呟くとき、それは証明不可能な、しかし切実な「賭け」となる。統計もエビデンスも沈黙するその瞬間、二つの遺伝子機械は、自らの不条理な輪郭を認め合い、言葉を超えた連帯へ、すなわち「祈り」へと越境する。
生きる意味とは、あらかじめ用意された正解ではなく、この不条理な実験を眺めるのには特等の席で、自らの崩壊や試行錯誤を淡々と観察して記述し続ける「観察記述者」の視点そのものにあるのではないか。
人生という名の「暇つぶし」の報告書に、意味という名の脚注を書き加える必要はない。祈りは欄外の落書きだが、人間はその落書きに、絵もたけてメロディーもつけて、しばし見つめている。人はただ、降る雨のように存在し、吹く風のように過ぎ去る。その署名のない試行の集積こそが、唯一の現実なのだ。壁の向こう側には何もないが、壁を見つめ続けるその眼差しだけは、確かに偽物ではないのである。
このように書いているということ自体が脳のバグに絡めとられていることだ。
祈りなど言い出すことは、脳もDNAも予想外のことだろう。雨乞いの祈りも、甲子園球場の祈りの応援も、最愛の人の延命を祈る時間も、能率が悪すぎる。DNAにとっては、脳の設計ミスのせいで余計なことをしていると見えるだろう。脳にとっては、バグを持ってしまった生存機械付属品としての宿命であり、引き受けるしかないのだろう。そうは思いつつも、DNAにとっても、脳にとっても、祈りは美しいものではないだろうか。そのために生き、そのために死んでも、悔いはないと思えるほどの、美しさなのだ。
