「契約書にサインした覚えはない」という点は、実は近代政治哲学や法学が長年向き合ってきた核心的なテーマです。
法律的・哲学的な観点から、この「目に見えない契約」がどのように説明されているか、主な3つの考え方を整理します。
1. 社会契約説(擬制としての契約)
近代国家の成立根拠として最も有名なのが、ホッブズ、ロック、ルソーらが唱えた社会契約説です。
- 考え方: 「もし国家がなかったら、弱肉強食の混沌とした状態になる(万人の万人に対する闘争)。それを避けるために、人々が理性的にお互いの権利を一部預け、共通のルール(国家)を作った」と仮定します。
- ポイント: 実際に行為として契約したわけではなく、**「もし契約がなかったら困るのは自分たちなのだから、暗黙のうちに合意しているとみなそう」**という論理です。これを法学では「擬制(ぎせい/見なすこと)」と呼びます。
2. 承諾の理論(明示的・黙示的同意)
「サインしていない」という点に対し、法学者のジョン・ロックは**「黙示的同意」**という概念で説明しました。
- 明示的同意: 帰化手続きなどのように、自ら進んで国民になる手続き。
- 黙示的同意: その国のインフラを使い、警察に守られ、その土地に住み続けていること自体が、「私はこの国のルールに従います」という意思表示であるという解釈です。例: レストランに入って注文をすれば、支払いの契約書を書かなくても「代金を払う」という契約が成立するのと似た論理です。
3. 憲法学における「権力制限」の視点
現代の日本の法体系においては、少し見方が変わります。
- 憲法は国民への命令ではない: 憲法とは「国民が国家に対して、勝手なことをするなと縛るルール」です。
- 権利と義務のパッケージ: 国民が享受する「基本的人権」は、国家が存在し、秩序が保たれているからこそ具体的に行使できます。その秩序を維持するためのコスト(納税)や協力(教育・勤労)が、セットとして憲法に書き込まれています。
まとめ:法的性質の正体
法律的には、国家と国民の関係は民法上の「対等な契約」というよりは、**「公法上の身分関係」**として整理されます。
| 項目 | 民間の契約 | 国家と国民 |
| 合意の方法 | 書面や口頭での明確な合意 | 出生という事実、または居住による継続 |
| 拘束力の根拠 | 個人の自由な意思 | 公共の福祉と社会の存続 |
| 拒否の手段 | 契約しない、解約する | 国籍離脱(憲法でも認められた権利) |
結局のところ、**「国籍を離脱する自由があるのに、この国に留まって恩恵を受けていること」**が、法的には契約書へのサインに代わる「承諾」とみなされているのが実情です。
