進化精神医学(Evolutionary Psychiatry)は、精神病理を進化的視点から理解しようとする興味深い分野です。主要な理論と批判をご紹介します。
主要な進化的仮説
1. ミスマッチ仮説
- 現代環境と進化適応環境(EEA)の乖離
- 例:うつ病と社会的孤立、不安障害と都市化
- 批判:過去を理想化しすぎ、歴史的証拠が不十分
2. 煙探知機原理
- 不安や抑うつは「誤作動しやすい警報システム」
- 偽陽性(過剰反応)のコストより偽陰性(見逃し)のコストが高い
- 批判:なぜ個人差がこれほど大きいのか説明不足
3. 社会的ナビゲーション仮説
- 抑うつ:社会的敗北後の「引きこもり」で更なる損失を回避
- 不安:社会的階層での地位維持のシグナル
- 批判:現代の慢性的で機能不全な症状の説明が困難
4. バランス選択説
- 統合失調症:創造性や宗教性との遺伝的関連
- 双極性障害:軽躁状態の生産性・社会性の利点
- 自閉症スペクトラム:体系化能力とトレードオフ
- 批判:遺伝的関連は弱く、利益の証明が不十分
特定疾患への適用例
抑うつ
- 分析的反芻仮説(Andrews & Thomson):抑うつは複雑な社会問題を分析するための適応
- 社会的リスク仮説:低い社会的地位での適応戦略
- 批判:重症うつ病の機能不全を説明できない、自殺傾向の説明が困難
不安障害
- 祖先環境での実在した危険(捕食者、社会的排除)への過剰適応
- 批判:パニック障害や強迫性障害の特異な症状の説明が不十分
統合失調症
- 集団選択説:シャーマンや預言者としての社会的役割(Horrobin)
- 性淘汰説:創造性や言語能力との関連
- 批判:有病率の一貫性(約1%)の説明は説得力が低い、生殖適応度の明らかな低下
自閉症スペクトラム
- 極端な男性脳理論(Baron-Cohen):体系化能力の極端形
- 批判:女性の自閉症の過小評価、ジェンダーバイアス
根本的な理論的問題
1. 適応主義の陥穽
- すべての形質を適応として説明しようとする傾向
- 病理を「隠れた利益」で正当化する危険性
- グールドの「スパンドレル」批判が該当
2. 遺伝的制約説
- 精神疾患は適応ではなく遺伝的システムの制約や副産物
- 複雑な遺伝的ネットワークの不完全性
- プレイオトロピー(多面発現)による負の相関
3. Just-so Stories批判
- 検証不可能な「物語」に過ぎないという批判
- 反証可能性の欠如
- 複数の矛盾する仮説が並立
4. 時間スケールの問題
- 遺伝的進化:数千〜数万年
- 文化的変化:数十〜数百年
- ミスマッチ理論の時間枠が不明確
方法論的課題
5. 測定の困難
- 祖先環境での精神病理の有病率不明
- 適応度(生殖成功)との関連を直接測定できない
- 文化横断的研究の限界
6. 還元主義批判
- 社会的・文化的要因の軽視
- 個人の経験や意味の無視
- 生物学的決定論への傾斜
7. 正常と病理の境界
- DSM診断の文化的・歴史的相対性
- スペクトラム概念との矛盾
倫理的・社会的懸念
8. スティグマの強化リスク
- 「自然だから仕方ない」という宿命論
- 治療への意欲低下
- 優生学的思考への悪用可能性
9. 個人の責任と社会的責任
- 生物学的決定論は社会的介入を軽視させる恐れ
- 構造的問題の個人化
対立する視点
社会構築主義
- 精神疾患のカテゴリー自体が社会的構築物
- 進化的説明は本質主義的すぎる
現象学的アプローチ
- 主観的体験の理解が不可欠
- 進化論は三人称的視点に偏重
神経発達説
- 精神病理は脳発達の障害
- 進化的機能の想定は不要
建設的な統合の試み
現代の研究者の多くは:
- 進化的視点を「説明の一層」として位置づけ
- 近接要因(脳メカニズム、発達、社会)との統合
- 過度の適応主義を避ける
- 治療への実用的貢献を重視
結論として、進化精神医学は刺激的な視点を提供しますが、単独では精神病理の十分な説明にはなりません。生物学的、心理学的、社会的、文化的要因を統合した多層的理解が必要です。
