「共同体主義的な風土」と「資本主義的な徳目(勤勉・蓄財)」がなぜ共存できたのか、そしてなぜ現代においてそれが「嫉妬」や「ハゲタカ視」につながるのかという点を論じます。
観察
日本社会においては、江戸時代から現代に至るまで「個人は共同体から自立できず、個人の尊厳が十分に尊重されない」、すなわち「真の意味での個人主義の欠如」が繰り返し指摘されてきた。そもそも「個人の尊厳」という観念自体が希薄な土壌において、商売による利潤獲得、勤勉、倹約、蓄財が「徳」とみなされた事実は、一見すると極めて逆説的(パラドキシカル)である。
過度に共同体的な集団の中で、なぜ資本主義的な諸価値が「徳」たり得たのか。その背景には、日本特有の「集団維持のための倫理」があったと考えられる。
現代においても、勤勉と倹約の結果として富を築いた者は、たとえ不正がなくとも周囲の非難や嫉妬の対象になりやすい。いわゆる「出る杭は打たれる」という相互監視と、横並びを強いるルサンチマン(怨念)が強く働くのである。圧倒的に突き抜けた存在であれば賞賛に転じることもあるが、中途半端に裕福な者に対しては、あら探しをして引きずり下ろそうとする傾向が顕著である。
このような集団心理を持つ風土が、自己責任と個人の自由を最優先するリバタリアニズムを抵抗なく受け入れることは困難であろう。実際、多くの日本人は外資や市場原理主義を「ハゲタカ」と呼び、自分たちを「むしり取られる被害者」と認識しがちである。
しかし、リバタリアニズムを単なる「搾取者の論理(ハゲタカ)」とみなすこと自体、その思想の本質を見誤っている可能性がある。むしろ、そのような拒絶反応こそが、日本人に内在する価値観や感受性――すなわち「個」よりも「和(共同体の秩序)」を優先し、自立した強者を警戒する心性――を分析するための重要な手がかりとなるのではないだろうか。
【なぜ集団主義の中で「蓄財」が賞讃されたのか?】
「なぜ共同体的なのに蓄財が徳とされたのか」という不思議を解くために、以下の3つの視点から議論を展開します。
1. 「公(おおやけ)」に奉仕するための蓄財、勤勉、倹約
江戸時代の勤勉や蓄財は、アイン・ランドが説く「自分の人生を自分のために生きる」というリバタリアン的な自己利益のためではなく、「家」や「共同体」を存続させるための手段として肯定されました。
- 石田梅岩の思想でも、商人の利益は「天下の御用」を果たすための「報酬」であり、蓄えた富は家の安泰や、非常時に地域を救うための「公的な性格」を帯びていました。
- つまり、「自分勝手に贅沢をするための金」は徹底的に蔑まれましたが、「共同体の維持に貢献する勤勉と蓄財」は聖なる修行として称えられたのです。この「私的な富」と「公的な富」の峻別が、日本特有の倫理を生みました。
2. リバタリアニズムが「ハゲタカ」に見える理由
リバタリアニズム(特にアイン・ランドの思想)は、「自分を他人のために犠牲にしない」と同時に「他人を自分のために犠牲にさせない」ことを説きます。
- しかし、共同体依存が強い社会では、「相互扶助(助け合い)」という美名の下に、有能な人間からの「搾取(甘え)」が構造化されています。
- リバタリアンが「私の富は私の知性と努力の成果であり、共同体に無償で分け与える義務はない」と主張するとき、共同体側はそれを「自分たちを見捨てる非情なハゲタカ」と感じます。日本人がリバタリアニズムを嫌うのは、それが「甘えの構造」を根底から破壊する思想だからだと言えます。
3. 現代における「嫉妬」の正体
江戸時代には「蓄財=家の存続=社会貢献」という明確な物語がありましたが、戦後の高度経済成長を経て、その物語が崩壊しました。
- 現代の相互監視や足を引っ張る文化は、「共同体のために尽くしているわけでもないのに、一人だけ抜け駆けして利益を得ている」ことへの不公平感から生じます。
- 人々がリバタリアニズムをハゲタカと認識するのは、彼らが「ルールを無視して共同体の富を奪い去る侵入者」に見えるからです。しかし実際には、ランドの言う「略奪者」とは、むしろ「無能を棚に上げて、有能な者の成果を分配しろと叫ぶ側(政府や大衆)」である可能性があります。
結論
日本人がリバタリアニズムに対して抱く「ハゲタカ」という感受性は、「自立した個」という概念が未発達なまま、市場経済のシステムだけが導入されたことによる拒絶反応です。
もし日本人が「個人を共同体に溶解させる集団主義」の危険性を認識し、本当の意味での「個人の尊厳」を確立できれば、江戸時代から続く「勤勉・蓄財」というエートスを、単なる集団への奉仕ではなく、「自立した個人の誇り」へとアップデートできるのかもしれません。
これを「アップデート」と単純に言っていいのかどうか、ためらいはある。
ただ、生物は環境が豊かになり、生存が楽になれば、個体中心になり、逆に環境が厳しく生存が危機的な場合には、集団中心になる。
豊かな環境では単細胞生物として生きている生物が、貧しい危機的環境では集団になり、多細胞生物として生きる例が有名である。
その観点からは、集団主義から個人主義に変化するのは進歩、またアップデートと表現してよいのだろう。
リバタリアニズムをどう受け止めるかは、私たちが「共同体というゆりかご(あるいは牢獄)」から出る勇気があるかどうかを問うている、と言える。
江戸時代日本とプロテスタンティズムの環境で資本主義が準備された。それはいいとして、それ以外の場所で、例えば、カトリックの地域、中国、インド、そうしたところで、資本主義の発達はどのようであったのか。とくに中国は高度な文化を誇ったのに、資本主義と帝国主義の競争には出遅れてしまった。それが不思議である。
資本主義は、その基本としては、人間の本性に根ざすものであると思われる。人間が生きていれば、どの地域でも、どの宗教でも、前提となりうるものであると思う。
自我の確立と資本主義が強く結びつけば、リバタリアニズムに近くなることは納得できる。
日本の高度成長時代の会社主義は、集団主義的資本主義が実現してい時期だったと言える。
一方で、精神的な面での、個人主義と集団主義の軸を置く。
一方で、利潤・生産財の面での、個人化の軸と、集団化の軸を置く。
